129-2聖ヨゼフのユリ

129-2聖ヨゼフのユリ
 皆さんの考え方はこうです。「グループが有能な人をかき集め、神のためにたくさんの仕事を成し遂げられるようになり、たくさんの仕事を捧げれば神が喜ぶ」。たしかにそうなれば人の目には神によく仕えているように見えます。しかし神ご自身が「そんなもの私はいらない」とおっしゃっているなら、この理論はそれで破たんしてしまいます。

 サウル王が戦利品をとって神にたくさんのいけにえをささげようとした時のようにです。神は彼に「敵のものは一切とるな」と命じており、その命令に従ってほしかったのです。敵のものでご自分にたくさんのいけにえがささげられることなど、神は望みませんでした。神の命令に従わなかったこの行いのために、神は彼から王位を取り上げました。(サムエル記上の15章を読んでください)

 今のミッションの日本人はサウル王と同じことをやっています。サウル王と同じ結果に終わりたいのでしょうか? 盗むな。みだりに人の持ち物を望むな。隣人を自分を愛するように愛せよ。これらの神の命令に従っていないのですから、たくさんの仕事をささげても神はお喜びになりません。

 人間的に考えれば、グループとして有能な人をたくさん抱えていればいるほど、神に貢献できると思うでしょう。しかしサウルにかえて王として神がお選びになったダビデのことを思いだしてください。

 神はダビデのご自分に対する完全な信頼心をお喜びになったのです。彼は巨人ゴリアテに対し、人間的には必要と思える鎧もつけず、剣も持たず、従者も従えず、たった一人で立ち向かい、拾った小石ひとつで、それらすべてを持っており、なおかつ巨人である敵を打ち殺し、全イスラエルを救いました。(サムエル記上の17章を読んでください)

 これで皆さん日本人の理論の根拠のなさを明白にし、神に仕えるものの世界においては、その理論は捨てねばならず、ましてや自己正当化に使ってはならないことを示しました。

 だから皆さんは日本人の派閥心を嘆き悲しむマリア様の御心の刺に自分がなっていることを認め、良心に痛みを感じるようにしてください。悔い改め、自分を変えることはそこから始まるのです。

 今、持っている人間的理論を捨てたなら、真理に根ざした超自然的理論を代わりに持たなければなりません。

 ダビデの用いた小石は、あなたが天に積む功徳を象徴しています。あなたが愛と善徳によってたてる功徳です。リトル・ペブルさんに一致したミッションの前進は、この功徳によって前進するのです。

 このミッションの前進をはばもうとする悪魔が置くすべての障害を突破できるのは、ただこの功徳によってなのです。あなたは功徳によって、神に求められるすべてのことを成し遂げることができるのです。

 功徳によってなす。これが皆さん全員が持つべき理論です。功徳は神の望みに従わなければたてられません。神の望みとは、皆さんがグループをこえて、違いを乗り越えて愛しあうこと、一致団結すること、協力しあうことです。

 愛しあうことに関しては、敵を愛せよと命じられているのですから、今、敵視し、敵対している他のグループの人たちを愛しなさい。

 一致団結せよと命じられているのですから、派閥心を捨て、他のグループの人たちと交流し、あなたの心と手を開いて、持っているものすべて与えなさい。何もかこってはいけません。

 協力しあえと命じられているのですから、競争心で相手をぶっつぶすようなことをやめなさい。話し合いをし,助けあえることを探し、実行しなさい。祈りも、犠牲も、仕事も、何もかも、神に聞き従って兄弟を愛するときに、初めて神に受け入れられ、功徳となるのです。

 最後にイエズスの聖福音の御言葉を書きますから、各自が深く内省してください。「だから祭壇に供え物ささげようとするとき、兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それから帰って供え物ささげよ」(マテオ5・23、24)

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129-1聖ヨゼフのユリ

129-1聖ヨゼフのユリ
 「第七、汝、盗むなかれ」 これは神がモーゼを通して人に守るようにと命じた十戒の掟です。マリア様のこのミッションの日本人は派閥心から、グループの利益のためにこの戒めを破っています。それは有能な人をかこうことによってです。有能な人はミッション全体のために、その才能をもって奉仕するために神から与えられているのです。

 それを自分のグループのためだけに奉仕を限定させることは、グループ以外の他のすべての人から奪い、盗むことです。たとえ有能な人自身がそう望み、同意してそうしていても、すべての人のための才能を独り占めすることは、それをおはからいになった神への反逆です。

 「第十、汝、人の持ち物をみだりに望むなかれ」 これもモーゼの十戒です。神はまた、モーゼを通して「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19・18)という掟を与えてくださいました。

 ところである有能な人があるグループにいて、別のグループがその人を引き抜いたなら、それはこの2つの掟を破ったのです。それが数少ない翻訳者だったなら、引き抜かれてしまった方のプロモーターは、またはグループのリーダーは、活動できなくなるほどの打撃を被ります。

 引き抜きとは、世間ではライバル会社をつぶすための手法です。競争相手を蹴落とす行為です。

 協力しあいなさい。愛しあいなさい。というマリア様の命令の逆を行く行為です。この行為には世間でさえもえげつないこととして、皆が眉をひそめます。隣人を自分自身を愛するように愛するなら、決してできないことです。利己心ここに極まれりといった行為です。

 このような行為が日本のこのミッションでは20年間変わらず行われてきています。派閥心はなによりも自分のグループの利益を追求させ、人を愛と善徳に対して盲目にさせ、その良心を鈍らせ、善悪の判断すらできなくさせます。

 今、ミッションに参加している日本人は、神に反逆し、マリア様の命令に逆行する自分たちの行為を、なぜ正しいものと思うのでしょうか? 自分たちのグループは神のため。だから自分たちのグループの利益は神の利益という考え方をしているに違いありません。そして、神のためにしているのだから正しい行為なのだという理論です。

 派閥心でおこなっている行為を、正しい行為なんだと自分自身の中で納得できる、日本人のこの理論の誤りを明らかに示さないと、日本人の良心は目覚めないようですね。

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追伸:
 ジャン・マリー神父は、文章はきついことを書いているけど、すごくやさしい神父だよ。とくに、間違っている人、罪人にたいして、信じられないくらいあわれみぶかい神父ですよ。こわがらないで、心をひらいて、悪さをもろだしにしてね。みんな受け入れてくれますよ。

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128聖ヨゼフのユリ

128聖ヨゼフのユリ
 同じ派閥心からの行動でも、派閥をつくるのと、グループに人をかこいこむのとでは大きな違いがあります。派閥をつくるだけなら、そのメンバーは他のグループのメンバーと自由に交流しているのですが、グループに人をかこいこむというのは、そのメンバーに他のグループのメンバーと交流させないようにする行為です。

 あなたが女性ならよく分かると思いますが、その手段として用いられるのは悪口、陰口、そしり、ざん言です。「あの人は悪い人だから、あの人ともあの人のグループともつきあっちゃだめよ!」というふうにです。こうして絶交させることで人を自分のグループにかこいこむのです。ですからグループ自体、完全に閉鎖的になりますし、そのメンバーの心も閉鎖的にさせられてしまいます。

 この行為のうちには派閥心という罪に加えて、愛徳に反する多くの罪が侵されています。いまあげた悪口、陰口、そしり、ざん言はもちろん、偏見を持たせる罪と偏見を持つ罪が犯されています。

 こういう行為があることと、こういう行為が主に女性によって行われていることを、私は16歳まで知りませんでした。同じ高校の女生徒が「女の世界はきたないのよ!」と教えてくれるまでは。

 その数年後、私はある修道院にいましたが、ある食事のとき、皆、楽しくて非常に幸せな気分でした。一人の修道士がこう発言したのです。「私たちは幸せだよ。シスターたちは、大変なんだよ!」と。見まわすと他の修道士たちが皆うなずいていました。修道女たちも、修道女である以前に女性なのですね。

 このリトル・ペブルさんと一致した日本のミッションにおいても、20年間絶えず同様の悪を見続けてきています。まさか人数が多いグループの方が正しいという理論を持っているのでしょうか? だとしたら、それは神に信頼するのではなく、数に信頼することであり、神に対する不信頼の罪も犯していることになります。

 旧約時代の歴史が教えてくれていますが、神は数を頼む人を助けてくださいません。神により頼む人を助けて下さるのです。また、この行為はそのうえ、人を自分たち以外の人と付き合わせないようにコントロールすることですから、独占欲の罪と支配欲の罪、そして貪欲の罪も犯しているのです。汚い策略の罪でもあります。

 なぜ人を自由にさせないのですか? なぜ自分たちだけの友人にしてしまうのですか? 皆さんは自分でこの答えを見つけるように内省してみてください。

 はっきりいいます。マリア様のミッションで、たくさんの罪の複合体であるこんな行為をする必要はありません。単に派閥を作るという悪よりも百倍も悪いことです。

 今、このミッションに参加している日本人は、この罪から直ちに足を洗いなさい。新しくミッションに参加した人は、彼らを反面教師にしてください。そして同じ罪悪に染まらないように、くれぐれも注意してくださいね。

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127-5聖ヨゼフのユリ

 ずいぶん以前からこのミッションに参加している日本人は、過去の日本に与えられたメッセージを知っており、大警告の間にほとんどの国土が海中に没する日本に、大警告の時点の前に共同体が設立されているかどうかで、沈まずに残る部分の場所と広さが違うことを知っているはずです。日本にとっても、日本人の救霊にとっても、これほど重要な共同体の設立なのですよ。そのためにすべきことの中で最も重要なことが会則会憲をできるだけ多くの人に読ませることです。どうか皆さん、会則会憲を読み、読ませてください。

 多くの人にとって内容を理解するのに経験が足りないことはわかっています。それだからこそ、こうして解説書であり、共同体生活の教科書である「153本の聖ヨゼフの百合」という本を書いて助けを与えているのです。そして皆さんは、日本と日本人の救いでもある共同体の設立を妨げた、会則会憲をかこう行為の根底にあった派閥心のこの恐ろしい害悪を悟ってください。派閥心を捨ててください!

 そして新しくこのミッションに参加する人たちに言います。皆さんはまだ洗礼を受けていませんね。外面的には聖書的な言葉で表現すると、「異教徒、罪人」です。しかしイエズスは聖福音の中で、恵みを拒んだ「選ばれた人」の分の恵みが「異教徒、罪人」に与えられ、「異教徒、罪人」の方が神の国に入るとおっしゃってくださいました。そして今、そのことがまさに起こったのです。御父は皆さん全員に共同体に入る召命を与えてくださっています。この呼びかけに応える人には、召命に応え続け、最後まで堅忍するための恵みを与えてくださいます。あなたたち皆が呼ばれているのですから、どうか皆が聖シャーベル修道会の会則会憲を読んでください。そして特に共同体の設立のメンバーに召されていると神から感じさせられた人は、名乗りをあげてください。神に信頼してください。あなたが完全な「ハイ」を神に向かって言うなら、すべてが恵みによってうまくいくのですから。

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 ジャン・マリー神父は、文章はきついことを書いているけど、すごくやさしい神父だよ。とくに、間違っている人、罪人にたいして、信じられないくらいあわれみぶかい神父ですよ。こわがらないで、心をひらいて、悪さをもろだしにしてね。みんな受け入れてくれますよ。

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127-4聖ヨゼフのユリ

127-4聖ヨゼフのユリ
 日本に共同体を設立するために、まず最初にやるべきことは会則会憲の翻訳であったのです。グループのリーダーやプロモーターたちは翻訳担当者からできた翻訳を受け取り、印刷し、リトル・ペブルさんを支持する人の出来れば全員の手元に届けるべきだったのです。これを読んで、よく理解したうえで、召命を感じ、共同体設立のメンバーになる資格があると自覚した人が、自発的に名乗りをあげなければならないからです。この内的呼びかけは神がご自身で自由にお選びになるもので、人が介入することは許されません。内的に召命を神から感じさせられた人が自発的に志願する。これが修道会です。「共同体は修道会」なのですから絶対にこうでなければなりません。

 共同体の設立のメンバーに神から召される人は多くの人の中に、わずかしかいません。そういう人があらわれるために日本語の会則会憲をできるだけ多くの人、できれば全員に読ませるべきなのです。それには翻訳担当者が全てのグループのリーダーとすべてのプロモーターに訳を渡し、自由に使わせなければなりません。これを妨げたのが派閥心なのです。

 翻訳は私が肩代わりし、今は誰でもが自由に日本語で読めます。すべてのグループのリーダーとすべてのプロモーターに、自由に使ってくださいと言って、会則会憲の本を送りました。

 そしてそこには今の日本のミッションの人々が夢想だにしないことが書いてあります。共同体は話し合いで、そして全員一致の決定を導き出せるまで話し合うことによって万事を決定すること。話し合いにおいては、いただいている賜物や、知識、才能、貢献度、年齢等に関係なく、皆が平等な発言権を持つこと。どの部門で、どの部所においてもこれを行い、上意下達(トップダウン)のやり方をしないことが規定されているのです。

 そして日本人たちが、内容として含まれていると思い込んでいることが、書いてありません。幻視者が共同体をつくる。幻視者が組織のトップにつく。幻視者が皆に命令する。幻視者があらゆることを決定すべきだ。などです。今、幻視者をトップにしたトップダウン、上意下達のシステムを聖シャーベル修道会の共同体だと考えている人々は、この聖シャーベル修道会の会則会憲を受け入れることができるのでしょうか? 自分たちの間違った考えを改めない限り、アシジの聖フランシスコの後継者たちが、天から与えられて書きとらされた第二会則を捨ててしまったのと同じことを彼らもするはずです。

 すでにグループのリーダーたち、プロモーターたちが今自分が世話している人々に聖シャーベル修道会の会則会憲を読むように熱心に促さないのは、実質的に会則会憲を捨てていることになりませんか? 日本語の会則会憲の存在を知りながら、読もうとしないこのミッションの人たちも皆、会則会憲を実質的に捨てていることになりませんか?

 聖シャーベル修道会の会則会憲を受け入れず、自分たち独自の会則会憲を作って、独自の共同体を設立しようとするかもしれませんが、「共同体は修道会」です。その独自の会則会憲は認可を受けるために聖座に提出されなければならないし、教会に受け入れられる方法で、三つの誓願を会員が皆、たてることができなければならないことを忘れないでください。しかし、もし幻視者をトップにすえたトップダウン(上意下達)のシステムなどという、修道会では採用不可能な会則会憲を作るなら、教会は決してそれを受け入れはしませんよ。幻視者を導くのは司祭なのです。幻視者がどれほど落ちてしまいやすいか教会は知っています。

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 ジャン・マリー神父は、文章はきついことを書いているけど、すごくやさしい神父だよ。とくに、間違っている人、罪人にたいして、信じられないくらいあわれみぶかい神父ですよ。こわがらないで、心をひらいて、悪さをもろだしにしてね。みんな受け入れてくれますよ。

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127-3聖ヨゼフのユリ

127-3聖ヨゼフのユリ
 次に修道者とはどういうものなのかを説明する必要があります。修道者とは修道会の敷地の中に住んでいるから修道者なのではありません。修道院に寝泊まりしているから、修道服を着ているから修道者なのでもありません。修道者とは従順・清貧・貞潔の三つの誓願を、教会を通して神に立てることによって、完全に神に奉献されたものになっているから修道者なのです。

 修道者自身、いけにえとして完全に、残りなく御父へのかぐわしいささげものとなるための焼きつくす炎であるこれらの3つの誓願、イエズスである十字架に永久に自分を打ち付けてくれる3本の釘であるこれらの3つの誓願、多くの霊的な子を産ませるためにご自分の花嫁としようとする聖霊への「なれかし」(フィアット=マリア様がお告げを受けたときの承諾のハイ)であるこれら3つの誓願について繰り返し、繰り返し黙想するのです。

 そして修道会とは、これらの3つの誓願を立てた人の集団です。この3つの誓願を立てる前提は、会則会憲を熟知していること、3つの誓願について完全に理解していることです。もちろんこの3つの誓願について教えているのは会則会憲です。ですから会則会憲を読まないなら、3つの誓願はたてることができません。すなわち会員には絶対になれないのです。

 これで「共同体は修道会」だという言葉を皆さんは理解できるようになったと思います。

 では、日本人独特の思いこみの間違いについての説明に入ります。日本のミッションにおいては今、共同体とは単なる共住である、つまり村のように単に寄り集まって協力して暮らすだけであるとか、ただ財産を共有にした祈りのグループであるとか信じ込まれています。共同体の設立に関しては、幻視者が中心になり、ワーカーとともに設立するとか、幻視者の指示通りに設立するとか、幻視者に頼まれて設立するとか皆が考えています。

 しかしこれは全くありえません。なぜなら「共同体は修道会」だからです。つまり共同体のメンバーとは従順・清貧・貞潔の3つの誓願をたてる人だからです。そして誓願とは、指示されてとか、頼まれてとか、強いられてたてることは許されないのです。誓願は、まったく本人の望みと意志だけで、完全な自由のもとに、だれからも影響されずにたてなければいけないものなのです。

 あなたがたとえ神ご自身から指示されたから、または願われたからと言っても、指示された、願われたというのでは、どんな修道会も誓願を立てさせません。まず会則会憲を熟知しており、三つの誓願と、誓願をたてるという行為について正しい理解を持っており、だれからも強制されず、影響されず、完全に自由な状態で、本人自身が自由意志で強く望むことが、誓願をたてるための絶対条件なのです。ですから祈りのグループに幻視者が指示して、それをそっくりそのまま共同体にするなどありえないことなのです。

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127-2聖ヨゼフのユリ

127-2聖ヨゼフのユリ
 今言っていることを皆さんに理解してもらうには、まず会則会憲とはどういうものかということを皆さんに説明する必要があります。2000年3月に、日本の聖シャーベル修道会は日本語の会則会憲の全文をホームページに公開し、読みたい人は誰でも自由に、ただで読めるようにしました。翌4月にはインターネットをしない人のために会則会憲を本にし、郵送する体制を作りました。この時点で会則会憲は、誰でもが例外なく日本語で読めるようになったのです。

 しかし、このミッションの日本人は、この時点においてもう全く会則会憲を自分たちには不必要なものだと考えるようになっており、読ませようとも、読もうともしなくなっていました。特定の幻視者の指導のもとに入り、幻視者の指示にその時々に従えば、共同体は設立できる。共同体に入った後も、それを続ければ問題は何も起こらないと信じきってしまったのです。特定の幻視者に従えばいいのだから、法律の条文など知らなくたっていいと考えています。日本人は会則会憲が修道会の会員にとってどういうものかすら分かっていないのです。読みもしないのに会則会憲を法律の条文だと決めつけています。

 いいえ、それらの考えは間違っています。「共同体は修道会」です。修道会の会員になるためには、会則会憲を熟知しなければなれないのです。ましてや共同体の設立のメンバーになるためには、日本の国や自治体のさまざまな法律や規定に適応させるために自由に応用できるほどに会則会憲を熟知していなければならないのです。設立初期の大変な時期、会則会憲の文面だけでなく、精神とカリスマをもそこから汲みとるほどそれを熟知していないと、状況に即した適用ができず、生活のバランスをとることができません。そして実際に修道会では、早朝の聖務日課の際や、沈黙で食事をする際に会則会憲が読み上げられ、会員が皆、完全な理解を会則会憲に対して持てるようにしていますし、志願期、修練期の間は特に会則会憲について深く学ぶのは言うまでもありません。

 会則会憲は会員にとって、いわば花婿です。花婿であるイエズスと一体となるために、会則会憲と一体になるのですから。会則会憲は、愛し、一体化する対象なのです。つまり花婿イエズスの精神が会則会憲で、花嫁である会員は、花婿イエズスの精神にひたされ、同じ精神になるよう会則会憲を知り、愛し、生きるのです。だから修道会においては、もちろん会則会憲の上に位置する会員など誰もいません。

 聖シャーベル修道会においても、創立者で将来の教皇のリトル・ペブルさんでさえ、この花婿である会則会憲に服従する立場にあるのです。だから会則会憲など知らなくても、目上に従っていればいいんだとか、天から直接に指示を受ける幻視者に従えばいいんだなどという考えはとんでもない間違いです。修道会とは会全体としてだけではなく、会員が一人一人例外なく花婿イエズスの精神である会則会憲によって統治されるところなのですから。

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127-1聖ヨゼフのユリ

127-1聖ヨゼフのユリ
 聖シャーベル修道会の会則と会憲は天からのメッセージと同様、リトル・ペブルさんに天から直接与えられたものです。アシジの聖フランシスコの場合と同じですね。アシジの聖フランシスコの小さき兄弟会が急激に発展したので、最初の原始会則にかえ、神は聖フランシスコに、それに即した第二会則を再び与え、書きとらせました。しかし彼の後継者たちはそれを捨ててしまいました。今、世界中でほとんどのフランシスコ会派が用いている会則は、その後、神が3度目に聖フランシスコに与え、書きとらせた第三会則であり、第二会則は永久に失われてしまったのです。第二会則は後継者たちが思い描いていた会のあり方とは、まったくあいいれない会のあり方が、神から与えられて書きとらされていたのでしょう。

 今、日本のこのリトル・ペブルさんと一致したミッションで、共同体を設立したい、または将来入りたいと思っている人が、もし聖シャーベル修道会の会則会憲を読むならば、アシジの聖フランシスコの後継者たちがやったと同じように、この会則会憲は捨ててしまうでしょう。なぜなら聖シャーベル修道会の会則会憲が、彼らの考えている共同体のあり方と全く違う共同体のあり方、彼らが考えている共同体の設立の仕方と全く違う共同体の設立の仕方を規定しているからです。聖シャーベル修道会の会則会憲とは全くあいいれない共同体のあり方、共同体の設立の仕方の思い込みは日本人独特の考え方から来ていて、この間違いはオーストラリアで聖シャーベル修道会が設立されたことが日本人の耳に入った時から存在しています。

 しかし聖シャーベル修道会の会則会憲を捨ててしまうに違いないほどに、日本人独特の間違った共同体のあり方と、共同体の設立の仕方の思いこみが、正しいものとしてこのミッションのほとんどの日本人にしっかりと根を張り、決定的に共通理解となってしまったのは1996年以後です。そしてそのことが防げなかったのは、聖シャーベル修道会の会則会憲が一部の人々にかこわれてしまって、ほとんど誰も読むことができなかったからです。リトル・ペブルさんからは翻訳担当者から受け取るように指示が出ており、待つしかなく、何年もがむなしく過ぎていったのです。結局このルートで日本語の会則会憲が入手できるようにはなりませんでした。この事態にはやはり派閥心が根底にあるのです。

 聖シャーベル修道会の会則会憲が一部の人々にかこわれてしまったことで、日本のこのミッションは計り知れない打撃を被りました。ひとつは共同体の設立が遅れていることです。しかしそれはもうひとつのことに比べれば、まだ小さな打撃です。そのもうひとつのこととは、共同体のあり方と共同体の設立の仕方の間違った思い込みが日本人の間に定着したので、聖シャーベル修道会の共同体の設立が、彼らにとって不可能になってしまったことです。そうです。遅れるならまだしも、不可能になってしまったのです。

 それはこういうことです。実例によって説明します。カナダでは、聖シャーベル修道会の共同体を設立する動きが非常に早く起こり、ニューブランズウィック州内で、ほぼ同時期に2つの共同体の設立が開始されました。そのうちのひとつは、財産を出し合ってひとつの敷地に共住を達成した段階から、先に進もうとしませんでした。マリア様はしばらくお待ちになられましたが、やがてついにこうおっしゃいました。「彼らはもう共同体ではありません。単なる農家の集まりです」と。そして彼らは崩壊の道をたどったのです。

 今、日本のミッションに参加している日本人たちが彼らの間違った思い込みを修正しなければ、必ずこれと全く同じ道をたどります。カナダの残ったもうひとつの共同体は、聖シャーベル修道会の会則会憲の正しい理解に立脚して、この会の精神とカリスマを学びつつ前進し、今は大きく発展しています。そのようにしないなら、共住し、たとえ財産を共有しても、聖シャーベル修道会の共同体には決してならないのです。

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126-3聖ヨゼフのユリ

 日本人である皆さんは宣教事業とはどうあるべきかという理解を持っていません。歴史を通じて示されてきた「神の摂理に信頼して寛大に与える」人々への神の祝福と保護の実例の数々も知りません。おまけに日本人は派閥心に凝り固まっていて、しかもケチンボです。だから過去の日本のミッションの過ちを反面教師にして、皆さんはどうか同じ過ちを犯さないようにしてください。

 天からのメッセージ等の翻訳をかこう行為は、日本のマリア様のミッションを分裂させ、グループ同士を敵対させています。しかし損害はそれだけにとどまりません。もしマリア様の望みに従って一致協力して仕事をしていれば、何倍もの翻訳の仕事ができていたはずです。最も重要かつ緊急だった聖シャーベル修道会の会則会憲の翻訳も、訳すように天から指示を受けていた人が訳すべき時に訳せたはずです。

 他にもマリア様がぜひ読むようにとおっしゃっていながら、日本語に訳されていない多くの部分が残されている本、マリア・ワルトルタの著作集とか、シエナの聖カタリナの「対話」とかも、その残りの部分を訳すことができているはずです。そのうえ見苦しい派閥間のいがみ合いは、愛徳を損なわせ、個人個人からも、日本のミッション全体からも多くの恵みを失わせ、多くの弱い人つまずかせ、ミッションから離れさせました。グループ自体も行き詰まり、自分の首を自分でしめる結果になっています。

 だからグループのリーダーたち、プロモーターたち、そして翻訳の実務者たちに言います。いつまで神の御旨に逆らって、摂理に信頼せず、持っているものを寛大に施さず、協力し合わず、一致を拒み、人間的なシステムに頼り続けるのですか? 天からのメッセージ等の翻訳をかこうことをもうやめてください!

「私たちが翻訳したものをどうか使ってください。使っていただければ、あなたたちに仕えることができて私たちはうれしい」と言ってください! そして翻訳の実務者は、自分自身にはこう発言する責任があるということを知ってください。「私が翻訳した天のメッセージをグループ内でかこうことを私は決して許さない!」と。

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126-2聖ヨゼフのユリ

「なぜメッセージ等の翻訳をかこって、他のグループに使わせないのですか?」と皆さんは質問しますね。それは自分のグループの利益だけをはかる派閥心なのです。つまり、メッセージ等の翻訳をかこうのは、世間的な集金システムの整備なのです。ですからもちろん世間的には法律的に認められた行為です。しかしこれは、神の祝福をいただける行為ではありません。

 例をあげて説明しましょう。コルベ神父様は日本に来て、宣教事業を開始し、「無原罪聖母の騎士」誌を出版しました。この月刊誌は、購読料を払いたい人は払う。払えない人はただで受け取るというシステムで発行されていました。これは世間的集金システムを知ってる人には、気違いざたとしか思えないシステムです。しかし、この「神の摂理に信頼して寛大に与える」というシステムは神の祝福をいただき、読者はどんどん増え、経済的にもうまくゆき、宣教事業は急速に発展し、多くの日本人に救霊をもたらしました。

 コルベ神父様の後継者に日本人会員がなっていくと、日本人はコルベ神父様のシステムを世間的集金システムに切り替え、そのシステムを整備してゆきました。ところがそうすればそうするほど読者は減少し、経済的にもまったく成り立たなくなっていったのです。これはコルベ神父様の精神による「神の摂理に信頼して寛大に与えるシステム」は神からのものであったことと、日本人会員たちの精神による世間的集金システムの整備は神からのものではなかったことをはっきりとあらわしています。

 ローマ・カトリックの宣教事業においては、すべての時代に、世界のどこにおいても「神の摂理に信頼して寛大に与える」人々は、神の祝福をいただくので、どんどんその事業が発展し、逆に人間的手法で経済を確立しようとする人々は、神の祝福をいただくことができず、徐々に行き詰まってゆき失敗に終わります。今ももちろんこのマリア様のミッションにおいても世界中でこのことが起こっています。

 リトル・ペブルさんは天から与えられたメッセージを発行するのにただで与えるだけです。広め方も何の制限もせず、インターネットですべて公開しています。翻訳者を許可制などにしたりしません。人間的に考えたら宣教事業の経済は成り立つはずがないのです。それなのにたくさんの反対者が経済的にぶっつぶしてやろうとあの手この手で挑んできても、事業は発展し続け、メッセージの支持者も全世界で増え続けるばかりです。

 日本の聖シャーベル修道会はコルベ神父様のシステムを採用しています。「箱舟の聖母」誌を、マリア様のためにすすんで奉仕したい人は寄付を出して読みます。そうしたくない人はホームページに数カ月後に無料公開されるのを待ってただで読みます。どちらの人も自由にコピーして読みたい人、読ませたい人にどんどん配ってよいのです。世間的に考えたらただで読めるものをお金を出して読むバカはいないと思うでしょうが、私たちには宣教事業に必要なお金はいつも送られてきているのですよ。これは毎日が奇跡の体験といって過言ではありません。

 しかもキリスト教徒でない多くの日本人が、私たちの宣教事業を通してリトル・ペブルさんと、天からのメッセージをもうすでに知っているという実りも実っています。これで十分わかりましたね。神の御旨は、私たちが「神の摂理に信頼して、持っているもの寛大に与えること」なのです。

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 ジャン・マリー神父は、文章はきついことを書いているけど、すごくやさしい神父だよ。とくに、間違っている人、罪人にたいして、信じられないくらいあわれみぶかい神父ですよ。こわがらないで、心をひらいて、悪さをもろだしにしてね。みんな受け入れてくれますよ。

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