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前代未聞の大奇跡が起きた!!

リトル・マグダレーナの証言
2017年5月20日(土曜日)の説教中、しずくのしたたる音を聞いた。十字架のある祭壇のほうから聞こえて、わずか1メートルのところに録音機があった。はじまって8分、ジャン・マリーが「ハイ。孤児ですね。」と言ったあとから、ポタッとひとしずくが始まり、続いて「マリアママがどれほど泣かなきゃいけないか。」っていうところで、またひとしずく。
北朝鮮の話にうつって「若い女の人がいて」というところで、ひとしずく。それから、だいたい1分して「世界はこれでとどまらないんだよ。」とジャン・マリーが話してから、ひとしずく。コプト教会のテロの話にはいると、一回にふたしずくと増えていく。したたる音が三度ほど続く(ふたしずく)。音も大きくなっていくのが、はっきりとわかる。
イザベラの話にはいって、また、ふたしずくの音。日本の多くの殉教者のところでも、また、ひとしずく。天草四郎と4万人の人々の話をしたときに、ひとしずく。そのとおりです、って言っているかのように、私には感じられた。天草四郎が、いつ殺されるか言っているところ。「飢え死にしたり」というところでも、ひとしずく。「旧暦の2月28日」のところで、ひとしずく。「桜の咲くころは、4月じゅう何日」という、太陽暦のところで、ひとしずくがあった。ここから、ひとしずくの音が、間隔がせまくなる。
幕府がたのさむらいが、どうやって殺していったか、という話しに入って、しずくの音が3滴、続くことが多くなって、海に死体を投げると話したところで、しずくが流れる。「残酷さにおいては、日本は世界有数だよ。」というところで、6滴のしずく。「映像で見たような」のところで、一回ひとしずく。次は「十字架を」のところで、一回、ひとしずく。なまり玉をつぶして作った十字架のこと。口にくわえて、首を切られたところで一回。されこうべのところで二回、大きな音のしずく。また一回、ひとしずく。1分ほどなくて、福祉の制度の話をしたあと、ふたしずくの音。「臓器を抜き取る、黒ミサにうっとばす」と言ったあと、一回、ひとしずくの音。「老人は社会の負担だから、安楽死させる」と言ったところで、ひとしずく。
「神ちゃまの目から、どれほど心が張りさけることをやっているか」のところで、5滴の涙の音。「本当にマリアママの悲しみを思いやる」のところでと「聖人たちは過労死した」と言ったところで、3滴のしたたる音。「共産主義の加わらない人たちは、『しゅくせい』といって、スターリンから殺されまくった」というところで、弱く2滴の音。「今のことだよ!」のところで、ひとしずく。1分ほどなくて、「ミサはない」というところで、ふたしずく。
また、1分ほどなくて「性器までズバッ」ていうところにきたときに、ふたしずくの音。「臓器も取りさられて」のあと、1滴ずつ、3滴の音。「何かできるとみんなに言いたい」のところから流れ始める。「悪をくいとめるには礼拝だ」ここでポタッ、ポタッ、ポタッと3滴。「リトル・マグダレーナが毎金曜日と13日、3時間のつぐのいをやっている」のところで、ひとしずく。「悪魔との残酷な関係」というところで、ひとしずく。「永遠に霊魂が虐殺(ぎゃくさつ)される」のところで、ひとしずく。
「存在しつづけて」のところで、ひとしずく。「ロード・オブ・ザ・リングの旅の仲間」のところで、3回、したたる音。「全力を尽くすべきでしょ?」と「自分たちのために時間を使うのは、一番くだらない」のところで、ひとしずくの音。スール・マリー・エメリーの話に入って、「つぐのったんだ」のあと、「とびこんだ修道院のマザー」のところに、ひとしずく。「ルシファーとの奪いあいが続いて」のあと、「マザーたちが勝った」のあと、弱く1滴。そのあと、「観想修道女たちの、ひたすら礼拝、つぐのいだ」のところで、ひとしずく。2滴ずつのしたたる音が、このあと1回ある。その前に、「本当にそうだよ」と、ジャン・マリーが言ったところで、1回、ひとしずくの音がしている。「もっと、もっと、もっとやってあげたい神ちゃま」のところで、ふたしずく。「仕え、奉仕する」のところになったら、ひとしずく。「長時間、休まなきゃいけない。どんどん」のところで、ふたしずく。「休むっていうのは、礼拝し、つぐのってから休むんだ」と言ったあと、ひとしずく。
「そういう場合ですか?」ひとしずくの音。「みんなの精神的やすむっていったら」のところで、ふたしずく。それから、ひとしずくとふたしずく。ジャン・マリーのことで「活動する時間が、本当に少ししかなくて」と言っているところ、ふたしずくの音。「だって、昔からできる」ひとしずくの音。「でも、子供のころからならったこと」ひとしずく。「ヨゼフパパも泣きじゃくる。どうする?」と、ジャン・マリーが言ったあとから、したたる音が、全部で17回のしたたる音がした。
マリア・アナスタジアの話しに入って、しずくが聞こえている。「十字架を担いなさいって、天が言ってる。あの痴呆のおばあちゃんにも」で、ひとしずく。そのあと、「自分に娯楽のために使う時間っていうのは」のところで、ひとしずくの音。「もちろん、バランスでね」のところで、ひとしずくの音。「戦えっ!たら戦うんだ。命をおしまず」ここから、またしたたる音が聞こえている。5滴のしずくの音。「ぼくも言われたよ。ご聖体の前を通るとき」のところで、ひとしずく。
「起きあがって、聖体訪問し」のあと、「帰ってきて、また両ひざついて聖体訪問し、ゴロン」この間に、3度、ポタッ、ポタッ、ポタッとしたたる音。リトル・マグダレーナと外出した時に感じた話になって、「本当に、心臓にまったく力がない」っていう話をした時に、ふたしずくの音。「数日前、本当にダメだとわかった」ふたしずく。「何しろ、心臓病なんだ」のところで、ふたしずく。「毎年、重くなっていく」のところで、ふたしずく。
「告解を聞いてもらえて」のところ、ふたしずく。「マリアママをうれし泣きさせることしか、頭になくて」のところで、ひとしずく。「そういう司祭がいて、折にふれて語り、模範を見せ、そして・・っていう」のあと、ひとしずく。「でも、本当に今、とうとう始まった・・。」4滴のしずく。最初、ひとしずく。次に、ふたしずく。最後に、ひとしずく。「みんなが用意できてない」のところで、ゆっくり、ふたしずく。「できるだけ、イエズスから離れようとしたのは、ユダ・イスカリオテだ。」ひとしずく。「自分の良心、よいこころの良心」のところで、ふたしずく。
説教は54分間。しずくの音は、8分して始まった。そして、終わる2分前に止まった。だから、44分間。しずくの音が続いた。「不思議だな~。どうしてなんだろう?何かあるのかなあ?と思って、びっくりしながら聞いていた。」
録音機に録音されてるのがわかった時、そのビックリは増した。空耳じゃなかったんだと思った。
御受難のマリア・アントニアをとおして、マリアママが説明してくれた内容を聞いたときは、「しずくの音が真実なんだ!」と思った。これから何が起きるんだろう?というのが、正直な思い。
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前代未聞の聞こえる奇跡が録音された。それはマリアママの涙と御子イエズスの十字架上で流された、わき腹から出た血と水に分離されたものの、したたる音だった。5月20日のミサの説教中、54分の説教の間、44分にわたってしたたる音は続き、録音された。マリアママの涙と多くの人たちのために流されたイエズスの血と水のしたたる音の奇跡の理由を、マリアママは「これから、いよいよ、サタンの大あばれが始まるからです。私の話を聞いても、受け入れなかった霊魂にあわれみの涙を流しています。」と教えてくれた。
獣のフランシスコ教皇は、ルシファーを礼拝し、仕えているサタニストだ。アルゼンチンの軍政時に、軍に両親を殺された孤児たちを、メインは黒ミサのいけにえに、次は性奴隷にと、軍と手を組んで売りとばしていたのが、フランシスコというコードネームを、軍から与えられていた、イエズス会の当時の管区長の彼だった。
彼を大喜びで受け入れ、ついていくカトリック教会は、三位一体の神という夫を裏切り、ルシファーというサタンを夫にした大淫婦(だいいんぷ)となった。神をとりかえるということを、とうとうやってのけたカトリック教会の人々は、マリアママの話を聞いても受け入れなかった。そして、いよいよ全世界で、悪魔の大あばれが始まる。
ローマ兵のロンジーノが、イエズスのわき腹をやりで突いて、み心が大きくさかれ、血と水が流れ出た時から、「ここにおいで。入りなさい。」と、愛のみ心は開かれたままだ。マリアママの話を聞いて受け入れる人が、マリアママの涙、イエズスの血と水によって清められ、大きく開かれたみ心に入って、天国に行く。
今、「おいで。」と呼びかけられているのは、どうしようもないほど罪によごれくさったならず者たち。(特に性的罪におちいっている人、もちろん悪いことをくり返す人も。)そして自殺志願者、ひきこもり、同性愛者、性同一性障害の人、性転換した人、e.t.c.だ。これからいよいよサタンの大あばれが始まる。けれども、リトル・ヨハネであるジャン・マリーが、マリアママの話をし続けるので、リトル・ヨハネを信頼して、マリアママの話を受け入れて、どうかヨゼフパパによって天国に裏口入学してね。
ぼくは、言いたいことが、まだまだいっぱいあるから、これからも発表するよ。
ジャン・マリー神父・ソーンブッシュ・リトルヨハネ

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あるフルエクソシズムで対決した悪魔(堕天使)の告白 2017年3月28日 AM3:50

今の教会には、何もほとんどめぐみが注がれていない。上層部の人間は、すべて俺たちにあやつられている。そして、信徒たちは、プロテスタント化されている。司祭は、ほとんどの司祭が時間をかけてミサをしなくなっている。司祭は、ほとんど信徒の前でミサをしなくなっている。やりたがらなくなっている。そして、ほとんど時間もかけずに、ほそぼそと一人で、したくないけれども、という気持ちで、孤独でしかたなくという気持ちでやっている。信徒にミサの話をすると、嫌な顔をされてしまうので、ほとんど、必要な時以外は、話をすることもなくなっている。何かの行事の予定を話すようにしか、話せなくなっている。こっけいでしかたがない。建物は、かろうじて、そうごんな雰囲気を残している所はあるが、そこでミサをするという気持ちは、ほとんど無い。無くなってしまった。結婚式場の方が、よほどすばらしい。だが、まことの神がいないのは事実だ。うつわだけが残っていて、もぬけの殻である。昔はそこには(教会には)、まことの神が存在していた。だから皆、招かれた。来るようにみちびかれた。俺たちの計画が、しみとおる前は、本当に神の代理者のいる場所だった。罪の告白を、神の代理者として熱心に聞き、神の代理者として自分が許すのではなく、救い主が許しを与えるのだという神父は、昔はあたりまえにたくさんいた。今は、罪の告白(告解)を、神父が自分から逃げてしまっている。神の代理者という重要な立場で、真剣な神父がほとんどだった。それをくずすのに、ずいぶん時間がかかった。今では集会所となった。歌を歌って、お茶を飲みながら話をして解散するという、こっけいな場所にすることに成功した。司祭は、神父は、すみに追いやられている。見たところでは、神父がそこに中心にいて、皆を先導しているように見えるが、ほどんどは、面白いように女の信徒たちは、はりきって活躍するから、俺たちの思うとおりになっている。俺たちにとっては、大変、喜ばしいことだ。どんなことがあっても、かえてはいけなかったのは、十字架からイエズスを無くして、ただの木の十字架にしてはいけなかった。磔刑像(たっけいぞう)でなければいけなかった。救い主の存在を、消し去ってはいけなかった。ただの十字架にしてはいけなかった。救い主がはりつけられている状態のままにしておかなければいけなかった。今も、そのままでなければいけなかった。あろうことか、復活した救い主の像にかえられているところがあるけれども、今はまだ、そういう時期ではない。司祭は、ミサをどんなことがあっても続けなければいけなかった。昔のように・・。何も省略をすることなく、ラテン語で、時間がかかっても、ていねいにやらなければいけなかった。女たちの意見に押されることなく、続けなければいけなかった。少しずつ変えていったのは、俺たちの計画だったけれども、女は本当にすごく使いやすい。そして上層部からも少しずつ変えていった。決まり事を少しずつ、あやしまれないように変えていった。ほとんどカトリックでは無くなっている。ほとんど正しく行われていない。これほど俺たちがつぶしたいと思っているのは、それほど重要だからだ。ミサがあると、正しくミサが行われると、たくさんの霊魂が天国へ行ってしまうからだ。最後のばんさんの時に、救い主が使徒たちに教えた事が、再現ではなくて、司祭が信仰を持って行う時は、毎回、聖変化が本当に起きていた。俺たちにとっては、残念なことに、まだ正しく行っている司祭が存在している。そして今回、俺が言いたいこと、言わなければいけないことは、決して女たちが、司祭にはなってはならないということだ。あれこれ色々な理屈で主張をしているけれども、救い主が使徒をあつめて、ミサの制定をしたとき、それを伝えたとき、そこには、その部屋には、女性はいなかった。救い主は使徒だけに伝えた。男どもだけに伝えた。あれこれ女性の権利を主張するような、あたかもそれが正しいことのようなこととして、声を張り上げて言うような者たちがいるけれども、今までそれがいかに女たちの一番、弱い部分であるかを、一番、女たち自身がわかっていない。また、同じ事でさわぎ始めている。今度は司祭にまで、なろうとしている。なりたがっている。これも俺たちの計画の一部ではあるが、じきに思い出したように、女性の司祭の話が再浮上してくることだろう。こりもせずに、あきることもなく希望し続けている。昔の司祭のように、祈りを中心として、霊魂のためなど、これっぽっちも考えていない。自分のためだけの、形式だけの注目をされたい。もよおしものを開きたいと、行動をするようになる。腹がよじれるくらい、おもしろい。人の事など、何も考えていない。女どもが司祭になどなったら、本当に取り返しのつかない大変なことになる。外見は・・。教会の外観は、たちまち喫茶店のようになる。そして内部は、考えただけでも、笑いがこみ上げてくるが、音楽会の会場と変わらないようなものになる。だから女性には、司祭にさせてはならない。許してはならない。秘密を守ることなど出来ない。神との一対一の対話など、出来るはずもない。するわけもない。他の霊魂のために祈るはずもない。出来やしないのだから。ごく一部の、めぐみを与えられた霊魂の女性しか、人のためになど祈らない。修道女といえば聞こえはいいが、自分の事で精一杯なのだから・・。そのようなやつらは、「あなたはつつましくて素晴らしい」と人から尊敬されることが続いて、いつのまにか、自分は気高いと本気で思うようになる。いばるようになる。俺たちからすると、都合の良いご意見番が出来上がる。とても偉大なことをしていると思っている。司祭に意見をするようになる。指示をすることで、自分の地位をなんとか保っている。自分が言わなければいけないことは、女性が司祭にはなってはいけないということだ。はっきりしているのが、天におられる祝されたおとめですら、沈黙を守っておられたのに、いつも表には出ることも、ほとんどなかったのに、このごろは女性が司祭になってもいいではないかと主張をする。どこまでうぬぼれているのか。犯罪の影に女ありとは、よく言ったものだ。もともと女が男をそそのかして犯罪が生まれた。教会の中の、少しずつ変わっていったことの発端も、ある意味、女たちの努力の結果だ。自分たちが間違いをおかしていることなど、少しも気付いていない。指摘をすると、開き直る。そして、ますます集団で、団結をして抗議を始める。そこを俺たちは利用する。祝された、天におられるおとめからは、このことを話すように言われた。もし、女が司祭になって、告解を聞いたとするならば、たちまち秘密が暴露される。人の犯した罪の告白を知った途端に、話を大きくして、人に話をしてしまう。どんなに口が重い女性でも、告解の秘密を守る事は、完全には、絶対に出来ない。天におられる祝されたおとめ以外は、本当にエヴァの罪が出てくる。失語症にでもならない限りは、必ず秘密が暴露される。
もう一度話すが、絶対に女は司祭になどなっては、ならない。代理など、真似事をすることも、特別な事情が無い限りは、やってはいけない。俺は、もう、すべて話さなければいけないことは、本当に話した。

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あるフルエクソシズムの時に対決した地獄へ落ちた霊魂の告白 2017年3月13日 AM12:23

俺は地獄から来た。もとは、人間だった。そして自殺をした。最後まで、憎しみしかなかった。だが、自殺をした者が、全員、地獄へ行くということは間違いだ。ほとんどは、救われている。天におられる方は、その霊魂のすべてを知っている。俺が行く場所は、地獄でも何でも来いと思っていた。生きているうちは、ある程度、実力のある地位だった。初めは、ただ豊かになりたい、それだけだった。初めは、食べていくのがやっとだった。金に目がくらんで、欲のままに走り出した。支援してくれる人から、金を巻き上げる方法を覚えた。どんどんうそをつき続けた。それが快感になった。おもしろくて仕方がなかった。口から出まかせを言って、いかに人をひきつけるかを覚えた。すべて自分の実力だと思っていた。人から尊敬をされて、ますますいい気になった。そのうち、人から持ち上げられないと、納得できなくなって、気が済まなくなっていた。面白いように人は、俺のことを慕っていた。集まってくるようになっていた。全て自分の実力だと思っていた。いつの間にか、大きな存在にもっと頼りたくなった。そして、もっと成功したいと思うようになっていた。自分が成功したい、ただそれだけの欲望のためだけに、すぐに、はっきりとわかる大きな成功を得るため、大きな存在に頼りたかった。自分に逆らって意見を述べるものに対しては、地位の特権を利用いて、たくさんの人間を追いつめて、自殺へと追い込んだ。それが何も悪いとは思わなかった。身近にいる人間で、従わない人には、お前たちも同じ様になると、話をしていた。同じ様な立場の人から、悪魔崇拝を、いつのまにかすすめられていた。初めは、何も悪魔崇拝という、言葉を使って話を聞かされることはなかった。すぐに目に見えて成功したことが、楽しくて仕方がなかった。ますます自分以外の人間には、恨みを持つようになっていた。どうしようもないくらいに、押さえられないくらいに、自分以外の人間は敵だと思うようになっていった。殺してもいいと思っていた。すべてが憎しみになっていった。自分に従わない人間には、すぐになぐりかかった。自分が信じているものに、すがり続ければ、何も怖くはなかった。表向きは、その地方の実力者だった。逆らう者は、皆、自分のもとから消し去った。成功していたにもかかわらず、心の中には、深い闇が口を開けていた。最後は半狂乱になって、自分を見失って、銃で口の中に発砲して自殺をした。その直前に、家に火を付けてから、銃で自殺をした。当然、私審判はあった。まさか、本当にこのような場所と時間があるとは、信じられなかった。そして、自分の意思で地獄を選んだ。霊魂たちが、まるで、たくさんのペンギンが海へ次々飛び込むかのように、自分たちで、暗い底を目指して、飛び込んでいるように見えた。うめき声をあげながら、落ちていく時には、上の方を、明るい方を見ながら、歯ぎしりしながら、俺も落ちていった。そこには、ルシファーがいた。そして、無理矢理、服従させられた。絶望だった。ため息しかなかった。もがけば、もがくほど、息苦しくなって、ひどいにおいと、絶望しかなかった。許されるチャンスが自分にもあった。天におられる祝されたおとめは、あわれんでくれた。それでも、自分で地獄を選んだ。他の力によって、決められるのではない。自分で地獄へ行く事を選ぶのだ。許してもらえるあわれみの機会があったのに、心から痛悔して、むせび泣く事を、俺は拒んだ。もっとも深い地獄の底には、ユダ・イスカリオテがいた。ヒトラーもいた。皆、ルシファーの強力な力に、ねじ伏せられていた。地獄は、本当に恐ろしく、自分が目かくしをして、さまよい続けるように、闇に支配されていて、何も見えない場所だった。さまよい続けていると、ふいに、何の前ぶれもなく突然、拷問を受け続けるところだ。それだけならば、まだいい。いつまでもひっきりなしに拷問を受け続ける。うめき声と、叫び声しか聞こえない。何度も窒息して気を失っても、永遠に続いて終わることはない。色々な拷問にあい続ける。そしてルシファーの命令で、生きている人間のところへ行く。逆らうと、とんでもないことになる。二度と地獄へは戻りたくはないので、言うとおりに従い続けなければならない。俺は、ここで地獄へ行くことになっても平気だと、軽く、しかし本気で思っている人間たちに言う。軽はずみで、気軽に簡単に思ったり、地獄なんかないと考えるべきではない。地獄なんか怖くはないと思うことは、悪魔が喜ぶだけのことだ。本当に恐ろしいところなのだ。本当に地獄は恐ろしいところなのだ。ひらきなおって許してくれるのだから、何をしてもいいと思うことも、意味を取り違えてはいけない。心から、本当に神を信じている人間のみが言うべきである。言ってもいいことである。自分のことしか考えていない人間が、言うべきではない。本当に許して欲しいと思っていなければ、私審判の時には、涙を流して、あわれみをこうことは出来ない。その場で急に、うわべだけで、許してもらおうと、軽く考えていてはいけない。そして、地獄へ行く事を、地獄へ行かされると考えるのは間違いである。生きていた時のすべてを見せられるので、良い行いをしたことも、悪い事をしたこともすべて見せられる。全てを見せられたあとに、素直に許してくださいと、心からあわれみをこう事が、天の方が望んで待っておられるただひとつのことだ。自分の全てを見せられて、あまりにもひどい事ばかりで、恥ずかしさのあまりにあわれみをこうこともなく、自分で選んで地獄へ行くことになる。もう一度、ここで言わなければならない。地獄へは、自分自身で選んで行くということ。人間が死んだあとに、生きていたところに、そのままとどまることはない。必ず天国か地獄、あるいは煉獄、リンボに行くことになっている。地獄を信じていない人間は、あとでひどい目にあう。これは、怖がらせようと話しているのではない。口に出すのも恐ろしいことが待っている。吐き気がするほど恐ろしいところだと言っておく。私審判の場には、すぐそばに、祝されたおとめ(マリアママ)がいる。そして、その浄配(じょうはい)の聖なる方(ヨゼフパパ)がおられる。もっとも近くには、自分の守護の天使がつきそっている。目の前には、光かがやく、まことの天主が、対面するように、こちらをご覧になっておられる。今、俺は適当なことを言っているのではない。そこで、無神論者も、まことの神の存在を思い知らされる。もう一度、ここで話す。地獄へ行きたいと、好きで行くんだからと言うようなことは、軽々しく言うべきではない。絶対に行くべきではない。面白半分で、軽く言うべきではない。地獄は存在する。本当に存在している。そして、もうひとつの事実は、最後まで、神のあわれみがあるということだ。そして、選ぶのは自分だということ。天国、地獄、煉獄、リンボは、本当にある。これは、まぎれもない事実だ。俺は、話さなければならないことは、全て話した。

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あるエクソシズムの時に対決した悪魔(堕天使)の告白 2017年3月2日 AM12:14

今のほとんどの人間は宇宙に関心が向いている。カトリックなどはどうでもいいと思っている。新たな興奮を加えた、不思議な、自分では体験していない、体験したことがない偉大なものを、そしてすぐに味わうことが出来ることに注目している。現実から目をそらさせて興奮状態を持続させたいと思っている。腹がよじれるくらい馬鹿なやつらだ。おかしくて仕方がない。宇宙から助けが来て、自分たち人間を救い出してくれるとか、広い宇宙のどこかに、知能が優れた生物がいるとか、何かめずらしいものがあると、すぐに地球外からのものに違いないと騒ぎ出す。理由がわからないものには、突然変異説を提唱し始めて片付けてしまう。たとえば、人魚のことについても、人間と魚がひとつになるようなことが、自然界ではありえないことが、冷静に考えてみれば、すぐにわかることだ。ただし、俺たちが手を加えると、そんなことは簡単なことなのだ。不思議なものを少しだけ、証拠として、わざと気が付くように残しておけば、だいたいの人間は、それを真実だと、本気で思い込む。俺たちが、でっちあげさえすれば何でも信じる。おかしくて仕方がない。悪魔と聞いても、はるか昔の考え方として片付けられている。何かの順序があって、理由があって、結果として不思議なものや出来事があったと、俺たち悪魔という悪知恵が働く者の存在を絶対に認めない。ごく一部の人間は、俺たちを信じている都合の良いやつらもいるが・・・。自分自身の身のまわりで、何かトラブルがあると、自分自身か周囲の人間が原因だと思わなければやってられなくなり、失望する。俺たちは、人間をだますことしか考えていない。大昔から、核心に触れたくないので、真実ではない他のものに寄りすがろうとする。みんな馬鹿だ。俺たちが、全部、ほとんとのことは作り上げる。それが簡単なのは、天使と同じことが出来るからだ。もとは天使だったからだ。ありもしないものを、そこに置くことができる。実際は、かき集めて作ったもの、何もなかった手のひらの中に、色々な物などを出すことなど簡単なことで、細胞レベルでかき集めて、何でも出来る。信じ込ませることなど簡単だ。逆に、そこにあったものを無くしたり、移動させることも出来る。皆、死んだらすべてがわかる。皆、後悔する。生き返って、生きている人間に教えようとしても、普通は生き返ることは許されない。上におられる方が許された時、その役割を果たすときだけ、特別に生きている人の前にあらわれる。あとは俺たちのでっちあげなのだ。U.F.Oを呼ぼうとして、皆で輪になって手をつなぐなんて、おかしくて仕方がない。超能力といった、そういうものは“超”能力なのではない。うまく俺たちに利用されているだけなのだ。腹がよじれるくらい笑えてきて、おかしくて仕方がない。ほんのごく一部ではあるが、上におられる方からの道具として、気付かないまま、正しいことをしているやつもいる。俺たちの力を借りてまで、見たり聞いたりしたいと思うやつらがたくさんいる。世界中で、すごいと言われる超能力者とか、霊能力者、マジシャンのほとんどは、俺たちのあやつり人形だ。だが、すべてではないということだけは、言っておく。俺たちの手が出せないように、天使に守られている者がいるからだ。大部分の超能力者や霊能力者といったやつらは、俺たちがだまし続ける。特に、生きている人間たちの間では、幽霊とかの話は、怖い話になっている。俺たちが、幽霊は得体の知れない危害を加えてくる怖いものだと、固定概念を植えつけた。上の方たちもとで、生きている人間に現わされる霊といわれるものの見え方は、怖いものには見えない。わざわざ暗い所や、汚れたところにはいない。明るい時間帯でも、煉獄やリンボの霊魂は、はっきりと現される。はっきりと違いがある。怖くない。少しおどろくだけだ。暗いところで、はっきりしないようなものから、はっきり見えても暗いところに居たり、姿が見えなくても、人々を興奮させて、怖がらせるものは、俺たちのでっちあげがほとんどだ。皆、興奮したいという欲求を満たすために、廃屋などの暗く汚れた場所へ行く。煉獄や上の方のいる場所からの霊魂の場合は、明るい時間帯でも、はっきりそうだとわかる。物かげに、かくれているようなことはない。特にお前たちのいる日本では、いろいろな宗教がはびこっている。本当におもしろいことになっている。少し前の時代ならば、堅い信仰を持った司祭によって、正しく聖変化された聖なる救い主の体がけんじしてあるところに行けば、だいたいのことは解決していた。ターゲットにしていた人間が、その場所に近づきすぎると、俺たちは悲鳴をあげて、逃げ去った。何らかの助けが必ずあったから、俺たちは逃げるしかなくなる。そこには、たくさんの天使たちが、俺たちが入って行くのを防いでいた。今は、入りたい放題だ。うれしくて仕方がない。全く良い方である、上におられる方に、今は、何も寄りすがらない、ただの集会所、かんじんなものがないのに、ランプだけがついている、それも端の方で、ついているのか、ついていないのか、わからない明るさで、俺が言いたい事は、聖体ランプのことだ。聖なるものがないのに、ランプだけがついている。無いところもある。それがこっけいで、のたうちまわって笑いころげたいほどだ。集会所へ来て、意味のない話をして、お茶を飲んで帰って行く。時には馬鹿さわぎをして・・。大混乱になっている世の中を見ていると、とても楽しい気分になる。少し前までは、そうごんな、ひれふさざるをえないところだったのに。今は、むしろ何も宗教を信じていないような人の方が、俺たちからだまされることは少ない。生きている時になら、何度もやりなおしが出来る。死んでからは、後もどりは出来ない。地獄に来るやつは、本当に歯ぎしりをするやつらが、本当に絶望をしている。死んだ時に、しまったと思う。生きている間に真実を知ることが、ほとんどなくなっている。正しく良いことを知る機会があっても、自分の自由意思で選んできたから、人のせいにはできない。それでも、人のせいにすることしかできなくて、失望と恨みを抱いて、おちてくる。ひとこと、すべてのことを知った時に、心からあやまればすむことなのに、あわれみが注がれていたのに。そういう意味で、聖職者たちは、平信徒や何も知らなかった人の、数倍の責任を問われる。それでも、ゆがめたのは、俺たちの成せる業、だまされた方が悪い。それでも希望を・・。言いたくはないけれども、希望を持ち続けていれば、必ず助けがある。人間が、もし動物を同じく、猿からの進化のなせる業で、今に至っているとしたら、わざわざ死んだ後に、霊魂を集めるようなところはいらない。死んでしまったら、霊魂も消えてなくなるから、聖書の話はおとぎ話であるということが本当であると、今はそう信じている人が多くなっているし、教会でも、本気でそのように教えている。俺たちにとっては拍手かっさいなことが、当然のように話されて、反論をすると、反論をした方が馬鹿者、気違い扱いにされる。人間が、さるから進化したものだったら、すべてつじつまが合わなくなる。生物学者たちは、必至に、さるから人間になった瞬間、今の人間という状態になった区切りの部分をさがしてきたが、見つかるわけがない。区切りの瞬間の証拠が見つからないので、その時に、何か大きな自然の動きがあったからと仮説を出して、言い張って、はっきりしたことは、わかっていないことにしている。もともとが違うのだから、見つかるわけがない。それでも探し続けている。馬鹿なことだ。
まだ、俺たちはましな方だと言っておく。縛りつけられて、おりの中から話している。まだ、素直に話しているが、本当は言いたくなかった。今の教会の実状と世界のこんとんとした状態は、俺たちの大勝利だ。天使だった時に、神に逆らう事を選んで、ミカエルにたたき落とされた。ルシファーと手を組んで、というよりは、むりやり従わさせられているところが多い。俺は、自分のことした考えていないけれども、逆らうとひどい目にあうので、仕方なく従って、人間たちを、めちゃくちゃな大混乱にさせる状況に動かしてきた。ほとんどのことは、俺たちがくわだててきたことだ。これから話すことも、少し前からのことになるが、天に、上におられる祝されたおとめのことをはいじょしてはいけなかった。今、まことの救い主も、ただの偉人伝の中だけの、過去にいた人物として、偉人伝の本だなに、仲良く並んで収められている。歴史上の人物となってしまっている。俺たちはとてもうれしい。とうの昔に、祝されたおとめの配偶者も忘れ去られている、こっけいで仕方がない。大成功だ。本当に、俺たちが歯ぎしりをするほど、あわれみだけの方から、人間たちの注目を反らすことが、俺たちの目的だったし、そうなっているので、そうできたことが、とてもうれしい。うれしいことに、悪魔の仕業だと思っていない。初めに、俺たちが否定させる方向へ持って行ったけれども、あとは、何もしなくても否定してくれている。聖職者たちが、自分たちで、俺たちの存在を、熱心に否定してくれている。俺たちが仕組んだ、一人の人間を、いともたやすく、教祖と崇めて、人々が集まってくる。静かに祈りをすべきところでも、今はダンスパーティーで盛り上がっている。静かに祈ろうとする人間は、ほとんどいない。おかしくて腹がよじれる。死んだあと、どうなるかも、正しく知ろうとしないままで・・。十字架にしろ、祝されたおとめのために祈る、バラのかんむりの形をした道具にしろ、すべて自分がかっこいいとみられるために身につけるアクセサリーになっている。祝されたおとめの名前を、人前で口にすると、軽く笑われて、逆にけいべつされる。人間は、平気で祝されたおとめのことを、けいべつする言葉を話すが、俺たちは、決して口には出せない。口に出そうとすることは、おそろしい。さからうことなく、従っていられたのならと思うことしかできない。今、こうして言わされているけれども、こいつのような者しか(マリア・アントニア)聞こうとしない、聞く気がない。皆、かんじんな時になると、自分のことしか考えないから、祝された天におられるおとめからの語りかけも、しばらくすると、なくなってしまう。人生の中では、本人が気付かないような小さな出来事のうちから、大きな出来事までのあらゆる時に、良いすすめがあって、自分で選ぶ機会が与えられる。俺たちによって、間違った選びを、あっけなく、平気でしてしまう。俺たちにはうれしいことだ。本人が、俺たち自身だったら、間違えることはなかった。実に、もったいないことだ・・。一度を除いては・・。くり返すが、死んでから、普通の人間は、すべてがはっきり知らされる。それでも、心から痛悔して、あやまれば、ただ一言、あやまれば、あわれんでくださいと言うことが出来さえすれば、永遠に歯ぎしりをし続けるようなことにはならない。俺は、すべて話した。俺の話すべきことは、すべて話した。

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超強力な悪魔ばらい師、ジャン・マリー杉浦洋神父

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