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コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(10)

【 問題行動の数々…(5)】

カマキリ★

 前回、ねこのことを、おもしろおかしく書いたけど、実はこれは、ぼくの中に内在する異常なストレスからくる、回避行動のひとつなんだ。

「ねこ」は表面にあらわれる、一見して無害なものに思われるけど、本質的には、きわめて深刻な問題を内面にかかえているんだ。

 ジャン・マリー神父はよく、「日本人には、カトリックの信仰うんぬんの前に、情緒の傷のケアが必要だ」と言うんだね。欧米のキリスト教文化圏、パキスタンやアフリカなどの貧しいけど純朴な国の人々とはちがって、日本は「しつけの文化」で、世界一、人間らしさ、おおらかさのない国なんだね。

 人間には、神様がひとりひとりに創造してくださった霊魂という永久不滅の存在がある。それぞれの霊魂には、他の霊魂たちとはまったく違う個性がある。また、人間は動物の一種でもあるから、成長過程で、動物的に自然な肉体的・精神的欲求というものがある。日本の親たちは、それをまったく無視して、「この子のため」という大義名分をふりまわして、「盆栽」みたいに無理やりねじまげ、型枠にはめ、萎縮した、いびつな人間にしてしまうんだ。

 ぼくの中にある本質的な大問題は、「異常なストイックさ」と、その反動からくる、何かにのめりこんで破滅にむかってまっしぐらに進んでしまう「依存症」的な、まったく相反する二つのものが存在していることだ。

 47年間の人生で、ぼくは「異常なストイックさ」という外見だけを、みんなに見せてきた。多くの人々は、ぼくの学歴・業績を見て、何かえらい人、修道者のような人、近寄りがたい人etc だと思うだろう。もし、ぼくたちが最初の神様のシナリオ通り、聖シャーベル修道会の共同体のまま進んで、ぼくが第3部門の修道信徒誓願をたてていたら、外見上ぼくは、その役割を演じきっただろうと思う。

 でも、「ぼく個人の救い」ということを考えると、先にも書いたように、イスカリオテのユダのように、行動の第一の動機が「自尊心」「プライド」「自分をほめたたえること」だから、自分が罪深い人間であることを認めようとはせずに、「あわれみの神様」がやさしくさしのべてくれるその手をはらいのけて、自暴自棄になって、地獄へ自分で飛び込んでしまっていたと思う。

 傲慢(ごうまん)で、自分が「清く、正しく、美しい(笑)」と思い上がって、同宿会創立後、約2年たっても人ごとのように考えていた、このもっともあわれで、もっともみじめなぼくに、やさしい神様は、「リトル・ペブル同宿会」という「ぼくの居場所」をつくってくれた。

 一連のロザリオの祈りの最後に、「ああイエズスよ、……すべての霊魂、ことに主の御(おん)あわれみを最も必要とする霊魂を、天国へ導き給え。」 というのがあるけど、これ人ごとじゃなくて、ぼく自身のことなんだね。

 みんなは、どんなに罪深くって、その罪から抜けられないとしても、イスカリオテのユダのようなぼくよりは、はるかにましな霊魂なんだよ。ジャン・マリー神父は、こんなぼくを12年間も、いやな顔ひとつせずに、むしろ、よろこんでお世話してくれたんだ。

 だから、みんな、こわがらないで、ジャン・マリー神父のもとへ、やさしいマリアママのもとへおいで。彼は、すごくやさしい神父だよ。とくに、間違っている人、罪人にたいして、信じられないくらいあわれみぶかい神父だよ。こわがらないで、心をひらいて、悪さをもろだしにしてね。みんな受け入れてくれるよ。


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