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識別について(5) マリー・マドレーヌの自叙伝からの抜粋

 聖霊派の教会はとっても危険です。いやしの集会をよくしますが、いっしゅんのよろこびだけしかあじわえません。「『悪霊追い出し』と言いながら、悪霊を呼んでいるんだ」と、司祭がわたしに話してくれました。

 それから、わたしも経験したんですが、「異言を話す」、これは、「神様を讃美するためにつかうんだ」と聖霊派の人たちは言っていたけれど、司祭がおしえてくれたことは、神様を呪う言葉を言っているのだというのです。わたしは異言を解き明かすことはぜんぜんできなかったから、何も知らなかったです。びっくりしてしまいました。

 それから、手を人に置くことを、よく聖霊派の人たちはやります。けれど、唯一このことができるのは司祭だけなのです。いやしをおこなうのも、悪魔を追い出すのも、司祭に権能がさずけられていて、信者はこのことをするのを禁じられています。だからもし、あこがれをもっていたら、それをすてさってください。興味本位でしないでください。

 信者が按手すると、悪霊がはたらいて、悪い影響をその人におよぼします。悪魔との契約がされてしまう危険性もあります。他の宗教で、按手をする行為をすすんでしている人たちは、まさにそのとおりになっています。

 絶対、秘蹟をすることができるのは司祭だけです。よくおぼえておいてください。

 聖霊派の教会で、いやしの集会のとき、「賜物をそそがれて聖霊を受けた」といった人たちのなかで、たおれる現象があらわれます。これもちがいます。よく、「笑いが与えられた」と言って、みんな笑っていましたし、わたしもこの経験があります。けれど、そのしゅんかん、よろこびだけが前面にでているだけです。神様からくるのは、さわがしさではありません。

 音楽も、おどりながら、手をたたきながら讃美するんです。これはまさにニューエイジの影響です。解放感をあじわうことが目的の礼拝になっています。だから、一時的に解放されても、完全な幸いは得ていません。

 それと、聖霊派は、とってもカトリックを批判しています。わたし自身、説教中に何度もカトリックを批判する牧師さんの言葉をきいて、とっても心が痛くなって、悲しくなりました。偶像崇拝としてマリア様をきらっています。イエズス様にたいしての考えも、復活を強調するけれど、苦しむことに価値を置いていません。「十字架による死は、勝利ではなくて、よみがえりこそ人生の幸せであって、福音なんだ」と。

 カトリックは、イエズス様の十字架の救いに、一番の価値をおきます。聖霊派の人たちは、この価値にたいして、悪魔の手口だといって批判します。でも、カトリックは、これとはまったくちがいます。霊魂の救いがいちばんです。滅びようとしている多くの霊魂の救霊を一番におきます。それから、イエズス様の生涯を大事にします。

 オカルト的なものは、いっさいカトリックの教えに反するので、決して信じてはいけません。その考えを絶対にすてさってください。神話とか、伝説にもとづくもの、迷信もだめです。

 それと、自分も力をもって、人をいやしたり、奇跡をおこなえるようになりたいという考えも、いっさいだめです。「神の力をもらうことで、自分が何かちがうものになれる」という思いから、このあこがれがでます。傲慢なので、絶対にこの賜物にたいして執着することはしないでください。

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