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◆御昇天

- 大宣教命令 -

 ご復活から40日後、イエズス様は復活した栄光の肉体をもって、オリーブ山の頂上から永遠の御父のもとに帰られます。使徒・弟子たちを祝福し、「地の果てまで行って、私の御名によって宣教せよ!」と命令なさいます。

 ガリラヤに行った十一人の弟子は、イエズスが命令された山に登り、イエズスに会ってひれ伏した。けれども中には疑う者もあった。イエズスは彼らに近づいて言われた。「私には天と地のいっさいの権威が与えられている。行け、諸国の民に教え、父と子と聖霊との御名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」
(マタイによる福音書 第28章16-20節)

 彼らが集まっている時、「主よ、あなたがイスラエルのために国を再興されるのは、このころですか」と彼らは尋ねた。主は、「御父がご自分の権威によって定められた時と時期は、あなたたちの知るところではない。しかし、聖霊があなたたちの上にくだり、力をお与えになる。あなたたちはエルサレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう」と言われた。
 話し終えたイエズスは彼らの見ている前で天に上げられ、ひとむらの雲が弟子たちの目からそれを覆い隠した。主が昇っていかれる間、彼らが天を見つめていると、二人の白衣の人が現れて言った。「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか。今、あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」
(使徒行録 第1章6-11節)

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◆御復活から御昇天までの40日間

 また、イエズスはご受難の後、数多い証拠を示してご自分の生きていることを知らせ、40日の間、彼らに現れて、神の国のことについて話された。食事をともにしているとき、イエズスは「エルサレムを離れずに、私があなたたちに知らせた御父の約束を待て」と命じ、「ヨハネ(洗者)は水で洗礼を授けたが、あなたたちは間もなく、聖霊で洗礼を受けるだろう」と言われた。
(使徒行録 第1章3-5節)

 イエズス様は、使徒・弟子たちにあらわれ、欠点だらけで傲慢で卑怯ものだった彼らの罪をゆるし、彼らの信仰をかため、初代教会の柱となる彼らに、7つの秘蹟の奥義をお教えになります。イエズス様のご受難の時、なぜ神様は使徒・弟子たちがみっともない恥ずかしい行いをすることをおゆるしになったのでしょうか? それは、結果論から言えば、使徒聖ヨハネを除いた全ての者たちが、試練のときに永遠の御父に助けを願わなかったことが原因だと言えるでしょう。しかしもっと本質的で神様の奥義と言えることは、このみじめな体験を通して、彼らが自分自身の傲慢さ、惨めさ、勇気のなさをはっきりと認識して、本当に心から神様と人々の前にへりくだり、新しい教会の牧者として「十字架に近寄る、どのような者も見捨てず」、イエズス様のように「羊」のために自分の命さえ捨てることができる者になるために、このようなことが起こることを神様はゆるされたと言えます。
 自分が大いなる罪人で、欠点だらけで、傲慢で、卑怯ものだと、正しく認識することは、本物の「知恵者」になるための第一歩です。そしてこの惨めさを改め、建て直し、心の傷をいやすために、無限のあわれみである神様に駆け寄り、よりすがることこそ、「本当の知恵」です。そして、惨めな私たちを神様へとやさしく導いてくださるお方こそ「すべての恵みの仲介者であるマリア様」なのです。
 ご復活後の使徒・弟子たちは、あいかわらず人間的で非常に鈍いままでした。イエズス様は「私のあとに来られるお方」、すなわち聖霊を待ちなさいとおっしゃいました。聖霊が今までイエズス様がお教えになった、すべての奥義を思い出させ、本当に理解させるだろうと、使徒・弟子たちにおっしゃったのです。
 ご受難の時の大試練によって、自分たちが大いなる罪人で、欠点だらけで、傲慢で、卑怯ものだと、正しく認識しはじめた使徒・弟子たちは、マリア様のもとに集まり、深い痛悔と希望のうちにイエズス様のお約束の成就を祈り、待ちます。
(参照:マリア・ワルトルタ著「復活」 あかし書房)


◆使徒・弟子たちにあらわれる(6)

 イエズスは、この上もない威厳に満ちた姿で立ち上がる。「……私の子らよ、しばらくあなたたちと共にとどまる間、また話をする機会があろう。そして、あなたたちの犯した罪をゆるす。あなたたちは卑怯で残酷な者となっていたが、その試練も必要であったと思い、みなの罪をゆるし、心に平和がくるようにと願う。こうして、私の忠実な友人、力強い友人に立ち戻りなさい。
 御父は私をこの世に送られたが、私はまた教えを伝えさせるために、あなたたちを人々の間におくる。様々な苦難にあえぐ人たちが、あなたたちに慰めを求めに近づいてくる。皆は、私を失った時の惨めな気持ちを思い出し、その人たちを支え、照らすように心掛けなさい。闇の中では見ることのできない清さを教えるために、自ら清くありなさい。また人に愛を教えるためには、自ら愛を持たねばならない。光であり、清めであり、愛であるものが、正しい裁きを行うあなたたちを先ず正しい者とされるように願う。聖霊が、人を清めるあなたたちを清め、過去の罪を償う真実の望みを持たせてくださるであろう。その望みは、あなたたちのこれからの生活を英雄的なものとするであろう。
 聖霊が降る時、これ以上のことを、また話すであろう。今は、私の平和と愛を心から信じて踏み止まりなさい。現在ここにいない一人が来る時、またそれ以上のことを話そう。彼のために祈るように……」
 そう言って、イエズスは入って来た時のように、ヨハネとペトロの間の空席を残したまま、光とともに消える。その光の激しさに、使徒たちは思わず目を閉じる。その閉じた目を見開いた時には、苦い過去の過ちを償いたいという燃えるような思いと、イエズスの平和だけが残る。
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp93-94 あかし書房)


◆使徒・弟子たちにあらわれる(5)

「……さっきヨハネが言ったが、ばらばらになってしまった使徒を、愛の炎で一つに結び付けようとしていたのは、かつて一番罪深い女と言われたマグダラのマリアであった。あなた(ペトロ)は私を否み、私から逃げたが、彼女は私の傍らに踏み止まり、侮辱され、十字架につけられ、平手打ちされ、血の肌をさらしている私のそばにいて、同じ苦しみを味わっていた。死後も皆のからかいをものともせず、同じ信仰をもって、私の復活を信じた。彼女は今朝、苦悩に打ちひしがれそうになる自分を鞭打って、こう言った。『私は持っている物、すべてを捨てます。その代わり私の主を返してください』と。それでもまだ、あなたたちは『なぜ彼女に……』と言えるのか。……
……どうした? もうかえす言葉がないのか……そのように私がした詳しい理由を尋ねないのか……あるいは尋ねる勇気がないのか……では私の方から話そう。
 と言うのは、あなたたちだけが、私の跡を継いでくれる人たちだからである。卑怯者で、迷いの道に踏み込みはしたが、だが、あなたたちは私の後継者なのだ。あなたたちにしてもらいたいのは、まさにこの事、世界をキリストの信仰に導くこと、その事である。友よ、私の友よ、それは口で言うほど易しいことではなく、極めて困難な仕事である。今までもっていたような軽蔑とか、差別とか、あるいは誇りとか過度の熱心さとか、嫌悪感とか、いずれも人々の改心に役立つものではない。あなたたちは今まで、闇にいる人々に対して慈愛も、寛容ももつことができなかった。自分はヘブライ人であり、男であり、使徒の誇りがあると考えて、真の知恵を人々に理解させようとはしなかった。むしろ、柔和と忍耐、同情と共感、あわれみをもって、そういう人たちに接するべきであったのに、あなたたちが今まで、思い上がった同情心をもって、あるいは差別をもって見てきた人たちが、自分たちよりずっと信仰の行いをしてきたのが分かっただろうか……かつての罪の女、世俗のあかにまみれていたラザロ、私の名で人をゆるし導いた人、異教徒の婦人たち、…………私がそれを言うのは、皆が明日から、自分の犯したあやまちを思い出して、十字架に近寄るどんな人にも、心を閉ざさないように願うからである。今こそ。神の思し召しがどこにあるかを知る時である。全世界にキリストへの信仰を広めることが、それである。私は死に勝った。だが、死と言えども、古いヘブライ主義ほどには頑固でないと悟れ、私はその主義に凝り固まったあなたたちを矯める。
 ペトロ、気力をなくして、めそめそするのをやめなさい。私の教会の岩であるべきあなたは、今言った私の真理を、それは耳に痛くとも、よく心に刻みなさい。腐敗から心身を守る薬をつかって、自分自身を練り直しなさい。心をひらき、教会の門を閉じないように。時には、私を守り、あわれんでくれたのは、イスラエルだけではなかったこと、それにローマさえも、そうしてくれた人がいた事を思い出しなさい。十字架の足下に立ち続けたのは、あなたではなく、誰よりも先に復活の私を見ることのできた、あの罪の女であったことも思い出しなさい。そして神の咎めを受けることのないように、み旨に従い、心を開いてこう言いなさい。『……この私、ペトロは、どんな人も軽蔑できる人間ではない。もし私が人を軽蔑すれば、そのまま神から軽蔑され、自分の犯した罪がますます大きくなることだろう。もしこの世で主に祈らなかったら、牧者になるどころか、狼になっているだろう……』と、こう言いなさい」
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp90-93 あかし書房)


◆使徒・弟子たちにあらわれる(4)

……「ラザロだけではなく、マグダラのマリアとマルタも灯台でした。あなたたちは彼女たちのことをよく見ていなかったかもしれませんが、マルタの方は黙ってあわれみの業を行い。マグダラのマリアの方は、その勇敢な愛の炎で、御母マリア様の周りに私たちを集め、束ねてくれました。あの二人は、その人柄がよいというより、むしろ私たちを越える愛の持ち主でした。だからこそ、主の報いを受ける値打ちがあったのです……」 ヨハネがそう言うのを、イエズスは黙って微笑しながら聞いている。……「そうです、主よ、婦人たちに……特にマグダラのマリアには、額に少しお触れになったとか……マグダラのマリアは『永遠の冠をかぶらせていただいた気がします』と言っていました……それなのに、あなたの使徒たちには何も仰せになrないのですか……」 イエズスの顔からはもう微笑が消えている。恐れから抜け出て、やっと各自の考えを言い出せた使徒たち……最後に語ったペトロに向かって、イエズスは言う。
「……私には十二人の使徒がいた。私は自ら使徒を選び出し、そして心を込めて愛してきた。母親のように世話をして、私の生活を理解し、成長するようにと努めてきた。何一つ隠しだてはせず、すべてを話し、すべてを説明し、そしてすべてをゆるしてきた。彼らの俗っぽさ、軽率さ、頑固さも含めて……ところが、私の『時』が来た時、一人は私を裏切って殺人者共の手にわたし、また他の三人は、私が血の汗を流して祈っている時に、その場で眠り込んでいた……。また最後の時には、二人を除いて、残らず卑怯にも逃げ出した。この二人のうち一人は、もう一人の若くて忠実な模範があったのに、その模範を見ようとせず、ただ恐れのために私を否んだ。更に甚だしいことには、十二人の中の一人は、絶望のうちに自殺し、もう一人は私のゆるしを疑い続け、もう一人は、母の忠告で辛うじて神のあわれみに踏み止まった。私の一番身近にいた使徒たちがこの有り様である。愛ゆえに忠実であったヨハネと、従順を守ったシモンを別にすれば、私が人間の目で断を下したとすれば、私にはもう使徒はいないと言うべきであろう。……」
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp89-90 あかし書房)


◆使徒・弟子たちにあらわれる(3)

 晩餐の部屋には十人の使徒が残っている。夜はかなり更けたらしく、家の内も外も、しんと静まり返っている。他の人たちは、それぞれの部屋に引き取ったか、あるいはその日の騒ぎに疲れ果てて各々の家に帰っていったのであろう。……
……ヨハネはヤコボの言うことが耳に入らぬ様子で。フィリッポの方を向いて話すが、フィリッポも耳をかさないので、ヨハネの言葉はまるで独り言のように聞こえる。「……私には、主がよみがえられたと、そう知っただけで充分だ……。そのことを知ってから、私の愛はますます強くなるように感じる……考えてもごらん、主イエズスは、私たちが主に対して抱いている愛に比例して、その愛の強さの順に、お姿を見せられた……まず御母マリア、それからマグダラのマリア、子供たち、私とあなたの母、そしてラザロとマルタ……」 ヨハネのこのつぶやき、言わば独り言を、はじめは聞いていたフィリッポだが、その時ふと横を向いて、思い余ったように言う。「……イエズスが来られたら、私はどうしたらよかろう……あの時には逃げたが……今度もまた逃げ出したい気がする。……あの時は自分の身に何が振りかかるか、怖くて逃げ出したが、今度はイエズス自身がこわくて逃げるのではあるまいか……」……
……「……そのことをどう伝えていいか、ヨハネ、私に教えてくれ。あなたは御母マリアとよく話し合っているのだから、このあわれな私を放っておかないでくれ……」 シモン・ペトロがそう言うのを聞いて、ヨハネは力づけるように言う。「そうですね……ただ私は『主よ、あなたを愛しています』とだけ言いたい。愛することには、後悔もゆるしの願望も含まれているからです。けれども。シモン・ペトロ、あなたがどう言うべきかは、私にもよく分かりません……」 熱心者が言う。「私としては『奇跡を行い給う主よ、私をあわれんでください』と頼みたい。それは『ダビドの子よ』と言うより、もっともっと高いものを指している。ああ、私はそう考えて、体に震えが走る……私は頭を隠したい……今朝もそんなことを考えながら、誰よりも先に部屋に入った……」「……でもそんなふうに主を恐れるのは間違っていると思いますよ。あなたはまだまだ、主イエズスのことが分かっていない……」
 ヨハネが皆を力づけるようにそう言ったとき、突然部屋の中がぱっと光に満たされる。使徒っちは稲妻だと思って顔を覆うが、音は聞こえない。そろそろと顔を上げて見ると、中央の食卓のそばに、主イエズスが立って、「皆に平和!」と、手を広げて言う。……
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp78-82 あかし書房)


◆使徒・弟子たちにあらわれる(2)

 その後イエズスは、またテベリアの岸辺に現れたが、その現れた様子は次のとおりである。シモン・ペトロとディディモと呼ばれるトマと、ガリラヤのカナのナタナエルと、ゼベデオの子らと、そしてほかの弟子二人が一緒にいた。そのとき、シモン・ペトロが「漁に行く」と言うと、彼らは「私たちも一緒に行こう」と言い、出かけて行って舟に乗った。しかしその夜は何もとれなかった。夜明けごろ、イエズスが岸に立たれた。だが弟子たちはそれがイエズスだとはわからなかった。イエズスが「子らよ、おかずの魚があるか」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。「舟の右の方に網を下ろせ。そうすればとれるだろう」と言われた。網を下ろすと、魚は多くとれて網を引き上げることができないほどだった。すると、イエズスの愛されたあの弟子はペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞いたとき、裸だったので上着を着て湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは、魚の入った網を引きながら舟で帰ってきた。彼らは岸から五十腕尺(約25m)ばかりしか離れていなかった。
 岸に上がると炭火があって、その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエズスは「今とった魚を幾匹か持ってきなさい」と言われた。シモン・ペトロはまた舟に行って、網を岸に引き上げた。百五十三匹の大きな魚でいっぱいだった。魚はそんなに多かったのに網は破れていなかった。イエズスは「来て、食べよ」と言われた。弟子たちは彼が主だとわかったので、「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。イエズスは近づいてパンを取り、彼らに与え、魚もまた与えられた。イエズスが死者の中からよみがえって、三たび弟子たちに出現された次第は以上の通りであった。
 食事の後、イエズスはシモン・ペトロに、「ヨナの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているか」と言われた。ペトロは、「主よ、そうです。あなたのご存知のとおり、私はあなたを愛しています」と答えると、イエズスは「私の小羊を牧せよ」と言われた。また、ふたたび彼に、「ヨナの子シモン、私を愛しているか」と言われた。「主よ、そうです。あなたもご存知のとおり、私はあなたを愛しています」とペトロが答えると、「私の羊を牧せよ」と言われた。三たび「ヨナの子シモン、私を愛しているか」と言われたのを聞いてペトロは悲しみ、「主よ、あなたはすべてをご存知です。私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えた。イエズスは彼に「私の羊を牧せよ」と言われた。
 それから、「まことにまことに私は言う。あなたは若いとき自ら帯をしめ望む所に行ったが、しかし年をとれば手を伸ばして他の人から帯をしめてもらい、自分の望まぬ所に連れていかれるだろう」と言われた。これは、ペトロがどんな死に方をして神に栄光を帰するかを示すために言われたことである。こうして話して後、ペトロに「私について来なさい」と言われた。……
(ヨハネによる福音書 第21章1-19節)

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◆使徒・弟子たちにあらわれる

 この日、すなわち一週の始めの日の夜遅く、弟子たちは集まった。その場所の戸はユダヤ人たちを恐れて閉じられていたのに、イエズスが来られた。そして、彼らの中に立ち、「あなたたちに平和」と言われた。こう言ってその手と脇を見せられた。弟子たちは主を見て喜んだ。イエズスはまた言われた。「あなたたちに平和。父が私はを送られたように、私もあなたたちを送る」 そう言いながら彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」と言われた。イエズスが来られたとき、12人の一人でディディモと呼ばれるトマは、みなと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが「主を見ました」と言ったが、彼は「私はその手にくぎの跡を見、私の指をそのくぎの跡に入れ、私の手をその脇に入れるまで信じません」と言った。八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマも一緒にいたとき、戸は閉じてあったのにイエズスが来られ、彼らの真ん中に立ち、「あなたたちに平和」と言われた。またトマに向かい、「あなたの指をここに出して私の手を見なさい。あなたの手を出して私の脇に置きなさい。信じない者でなく信じる者になるように」と言われた。トマは、「私の主よ、私の神よ」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」と言われた。
(ヨハネによる福音書 第20章19-29節)

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◆御復活(3)

- イエズスはこう言われる -

 母マリアの心からなる祈りは、ある意味で私の復活の時を早めたと言える。私は前に、『人の子は殺され、三日目によみがえる』と言った。私が死んだのは、金曜日の午後三時ごろであった。日数として数えても、三日目と言えば日曜日の早朝ではないはずである。私が死の眠りについていたのは、ただの三十八時間であって、七十二時間ではなかった。三日目と言えば、せめて日曜日の夜まででなければならない。
 だが母マリアはかつて、その祈りをもって、世界の救いのために、定められたより何十年も早く天を開いた。その時のように今度もまた、自分のなえつきそうな心に慰めを与える復活の時を早めた。こうして私は、三日目の早朝、陽の昇る前に、人間がつけたあまりにも無力なあの墓の封印を切り、神の力をもって、これまた無力な番兵どもをなぎ倒した。生命そのものである私の『死』を番するために配置されていた番兵どもは、三度倒された。……
……私は、当然のことながら、それから母に会いに行く。私を守り、慰めた母。私を生み育ててくれた母、人間の体で神の光栄を受け、御父の光の輝きを放つこの姿で母のもとに行くが、この栄光の体に触れ接吻することができるのは、母だけである。私が『新しいアダム』であるならば、母は『新しいエバ』であり、清い者、美しい者、愛され祝される者である。サタンは女の姿を通してこの世に入ったが、サタンの唾に汚された人間を、ひとしお勝れた一人の女(マリア様)が清めたがために、人間は今、自ら望めば救いを得られるようになった。あの時、傷まみれとなった私は、弱り果てた女を助け、そして今、子なる神は、聖徳と母性の権利によって、母のもとに行く。
 そのあとで、かつて乱行に明け暮れた女(マグダラのマリア)のもとに行く。そういう生き方をして来た女たちも、身を改め、私を信じるなら、私のあわれみがすべてをゆるすことを知らせるためである。サタンに打ち勝つために、五つの傷に光り輝くこの私の体をその者に示そう。……罪を捨てて私を信じ、私を愛した人がどんな様子であるかをごらん。私は、ヨハネにさえ先に現れたのではない。このマリアに姿を見せた。……
……マグダラのマリアは、よみがえった恩恵の最初の現れに会ったが、もしあなたたちが、私のためにすべてに打ち勝ち、何よりも私を愛するようになる時、私は傷ついたこの手の中に、あなたたちの病んだ心をうけとり、そこに私の力を注ぎ込む。こうして、私の愛により、あなたたちは健康で幸福な美しい自由な者と変わる。そしてあなたたちを、私の慈愛を、あわれな取り残された人々に運ぶ者に取り立てよう。私をいつも愛するようにせよ。ただ愛をもて。神の御心を信じ、私があなたたちを愛したがためにどんなに苦しんだかを考え、ただ私を愛し、恐れることをやめよ。
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp42-45 あかし書房)


◆御復活(2)

 一週の初めの日、朝まだ暗いうちに墓に来たマグダラのマリアは、墓の石が取り除けてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロとイエズスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)のところに走っていって「主が墓から取り去られました。どこに置いたのか私たちにはわかりません」と言った。そこでペトロはもう一人のとともに出かけて墓に行った。二人とも走ったが、もう一人の弟子はペトロよりも早く走って先に墓に着き、身をかがめてそこに置かれている布を見たが、中には入らなかった。シモン・ペトロが続いて来て墓に入り、そこに置かれている布と、また頭においてあった汗ふき布を見た。それは布と一緒にはなくて、ほかの所に巻いておいてあった。先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、これを見て信じた。彼らはイエズスが死者の中からよみがえると、聖書にあるのをまだ悟らなかった。それから二人の弟子は家に帰った。
 マリア(マグダラ)は外の墓に近い所で泣きながら立っていた。泣きながら墓の方にかがむと、イエズスのお体の置かれていた所に、白い服をつけた二人の天使が、頭の方に一位、足の方に一位座っているのが見えた。彼らはマリアに向かって「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言ったので、彼女は「私の主を誰かが取り去りました。どこに持っていったのかわからないのです」と答えた。こう言って後ろをふり向くと、イエズスの立っておられるのが見えたが、それがイエズスであるとはわからなかった。イエズスは「婦人よ、なぜ泣くのか。だれを捜しているのか」と言われた。彼女は園の番人だと思ったので「あなたがあの方を移したのなら、どこに置いたのか言ってください。私が引き取りますから」と言った。するとイエズスは「マリア」と言った。彼女はふり向いて、ヘブライ語で「ラボニ」(先生の意味である)と言った。そのときイエズスは「私にふれるな。私はまだ父のもとに昇っていないからだ。兄弟たちのところに行き、『私の父またあなたたちの父、私の神またあなたたちの神のもとに私は昇る』と言いなさい」と話された。マグダラのマリアは、弟子たちのところに「私は主を見ました」と告げに行き、またこれこれのことを自分に話されたということも知らせた。
(ヨハネによる福音書 第20章1-18節)

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◆御復活

 イエズス様は、日曜日の朝はやく、御復活されます。栄光に満ちた美しい御復活の描写は、マリア・ワルトルタ著「復活」pp21-24(あかし書房)をご覧ください。

 母マリアは顔を床に伏せて、前にも言ったように水気を失ってなえてしまった花のように、打ちのめされた姿でひれ伏している。窓に何ものかが激しく打ち当たるような音がして、その時、『最初の太陽の光』とともにイエズスが入ってくる。……
……すさまじい音にはっと顔を上げた母マリアは、風でも出たのかと、窓を見上げる。その時、そこに現れたのは、傷あと一つなく、生き生きとした光り輝く御子イエズスの姿である。太陽よりも光り輝く糸で織り上げたような、白光を放つ服をつけたイエズスは、微笑を浮かべて母マリアに近づく。母マリアは膝をついたまま、腕を胸の上に十字に合わせ、まるで泣き笑いのような声で、「主よ……私の神よ……」とつぶやく。それから涙のあとの残った頬に、徐々に明るい微笑がひろがる。イエズスは、はしためのようにひざまずいたままの母の方に向かい、御傷から光線を発するその手を母の方にのばして、「私の母よ……」と、一言いわれる。それは受難前の離別と悲しみに満ちた声ではなく、カルワリオの臨終の際の苦悶の叫びでもない。勝利者の愛と感謝の響く声である。……
「もうすべては終わったのですよ、母上、あなたがわが子のために泣いた試練の時は終わりました。『贖い』は実現しました。私を養い育て、生きる時も死の時も助け続けてくださったあなたに、何と感謝すればよいのでしょう。あなたの祈りは私のところに届いていました。地上にいた時も私の苦しみを支える力でありましたし、私と共に十字架を担い、それを越えて死の国に至った時も私と共にあったし、あなたの涙は私と一緒に天の国まで昇りました。……
……この何日間は一人で苦しみ抜いて来られたけど、実は『私の贖い』には、あなたのその苦しみも必要な条件でした。私は自分の『しもべたち』みなを、この『贖い』に加わるように呼びかけますが、あなたはそれら皆の人よりも、はるかに力のある『人』です。もう私は、御父と離れてはいません。と同時に、あなたも御子から分かれることはありえないのです。言い替えるとあなたは、御子によって、三位一体を有することになります。あなたは生きている天国であり、地上において三位一体を担う者であり、司祭職の女王であります。そうしてキリスト者の母であるがために教会を聖とする者であるわけです。そしてのち、私はあなたを迎えに来ます。その時には、あなたは私の国において、天国をより美しいものとしてくださるでしょう。
 これから私は、もう一人のマリア(マグダラの)を慰め、幸せにするために行きます。それから御父のもとに昇り、信じることの少ない人々を助けに下るでしょう。さあ、母上、私に祝福の接吻をしてください。私の方からは、また仲間として私の平安をここに残します。では……」
 そう言って、イエズスは雲一つない朝の太陽の下に姿を消す。
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp24-28 あかし書房)


◆マリア様の受難(5)

- 復活の夜明け(2) -

……「イエズス……イエズス、まだ帰ってこないのですか……あわれなこの母は、あなたがまだ死んだままでいることに、もう耐えきれません。『神の神殿を破壊しても、私は三日でそれを建て直す』とあなたは言ったけれど、だれ一人その真意の分かる者はいませんでした……。私には分かっていましたけれど、よみがえりの三日を待つことなく、あなたに会いたいと思いつづけました。母は生きているあなたに会いたいのです。……あのむごたらしい血まみれのあなたを思い出すにつけても、元気で変わりのないあなたを見たいと思いつづけてきました。ああ、御父よ、神よ、私の子をお返しください。死の世界に入るイエズスではなく、生きている彼に、またお会わせてください。……
……イエズスは居なくなりました。イエズスが居ることは、彼の言葉は、私にとってこの上なく甘美な泉でした。母としての喜びのもとでもあったその泉が涸れてしまったのですから、私はもう渇き切った砂漠に捨てられた花のようにしおれ、まさに死にかけています。イエズスが死んだ以上、私も恐れなく死を迎えます。ですが、聖なる御父よ、イエズスの周りにいたあの小さな群れは、恐れています。彼らは弱いのです。彼らを支える者がいなくなった今、どうなるのでしょうか? ……
……私がこの世に残されたのは、これから何かお役に立てるからなのでしょうか。それなら、私はイエズスの道を守りつづけ、やがてその道の人々が団体となって教会ができ、それが力強く、まっすぐ進んでいくように、力をかしましょう。とは言うものの、イエズスが居なくなったのに、そう長く生き残れるとは、とても私には思えません。……
……この私をこのまま見捨てておかれるのでしょうか。私は、この苦しみを人々のために耐え忍ぶつもりではありますが、御父なる神よ、私をあわれみ、慰めてください。あなたに『はい』と申し上げたこの私のことを、御見捨てにならないでください」
 母マリアは、打ちしおれた花のように、床に倒れ伏して祈る。その時、短時間でははあるが激しい地震が起こる。床で祈る母マリアそれに気づかない様子である。青ざめたペトロとヨハネが、急いで部屋の戸口まで来るが、母マリアの様子を見て、おびえたように高間に引き上げる。
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp17-20 あかし書房)


◆マリア様の受難(4)

- 復活の夜明け -

……そう言って母マリアは、ゆっくりと主祷文をとなえ終わり、それからヨハネの肩に手をおいて言う。「ペトロのところに行っておあげなさい。今あの人を一人にしておいてはいけません。……」「……でも私には、何を言っていいのかわかりません。何を言っても、彼は泣くばかりです……」「主の定めがどこにあるかをお話しなさい。恐れているばかりでは、まだ神を知ったとは言えません。もし、罪を犯したとしても、神が罪人をどんなにか愛しておられるかをお話しなさい。神様はその愛のために『御ひとり子』をこの世にお送りくださったではありませんか。その神様の愛には、私たちも愛をもって答えねばならないでしょう。愛はまた、神様への信頼をよび、その信頼は、神様の裁きを恐れないようにさせます。
 私たちがあわれな人間であることを神様はご存知ですから、だからゆるしの保証として、また教えの柱としてキリストをお与えくださったのです。私たちがどんなに惨めであっても、キリストのおそばにどのくらい近いところにいるかによって、その惨めさは軽くなるのです。ゆるされるのは、イエズスの御名によってだけです。さあヨハネ、行って、今のことをペトロにも話しておあげなさい。私はイエズスと共にここに残っています」 そう言って、手にもった汗ふきの布をにぎりしめる。ヨハネは扉を後ろ手に閉めて出て行く。
 母マリアは、夕べと同じように床に膝をつき、ベロニカのヴェールのそばに顔を近づけ、御子イエズスに話しかけ、祈る。他人に話す時にはしっかりしていても、ただ一人になると、背負った十字架の重みが耐え難いように思われる。それでも、母マリアの心の中では希望の火が消えてはいない。時とともにその火は強くなるように見える。希望の火が消えないように、心を奮い立たせて、母マリアは父なる神に祈り、わが子イエズスに話しかけつづける。……
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp16-17 あかし書房)


◆マグダラのマリアの信仰(4)

……マグダラのマリアは、母マリアを腰掛に座らせ、その前に膝をついて、やさしい目で見上げて言う。「イエズス様はその霊によって、すべてを見ていらっしゃいます。私が、母マリア様に代わって、主の御体をととのえる時、あなたの愛と望みをしっかりお伝えしてまいります。……主イエズスによって、私は新しい誕生を果たしました。傾けた鉢から水があふれ出るように、咲き誇るバラのように、燃え盛る炎のように、私は、イエズス様によって生まれ変わり、そして、雪崩のようにイエズス様の愛に流れ込んでいきます。イエズス様から新しい力を得たのですから。人間に殺された『生きる神』に向かって、あわれみの主に向かって、私は聖なる愛に燃えつきたいのです。
 でも……でもそれでも私は、十字架上の主の身代わりにはなれませんでした……嘲弄のはて、血を流して死なれた主の身代わりになることはできませんでした……。せめて今、あらゆる形で苦しむことが、私の幸せです。私の命の糸が切れ、苦しみによって焼かれて灰になり、新しい生命に生きかえることが、私のこの上ない幸せであり、ただ一つの望みです。……心からの苦しみから絞りとった香油で、主の御体のお世話をいたしましょう。限りなく愛を与えてくださった主、その御体には、死さえも蝕むことはできません。死も逃げ出すでしょう。なぜって『愛は死よりも強い』からです。愛は屈することのないもの、愛は朽ちることのないものです。母マリア様、あなたの全き愛と、私のできる限りの愛を一つにして、主の葬りの準備をしてまいります」 母マリアは、マグダラのマリアの熱心な説得に折れる。……
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp13-14 あかし書房)


◆マグダラのマリアの信仰(3)

……マグダラのマリアは、静かに涙をぬぐう。「私は信じましたし、これからも信じ続けます。ですから、今日の日のために服も準備しました。もう三日目ですから、それをもって行きます……」「だが、あなたは、主が腐ってひどく見苦しくなっていると思っているのでしょう」「……いえ、そうではありません。見苦しいのは罪だけですから。でも、腐っているでしょう」「じゃあ、どうするんです?」
「お黙りなさい! 信仰を忘れたのですか? ラザロはすでに腐敗していたのに、それでもよみがえりました。私も人間の理性が『主は死なれたのだから、もう復活はしない』とささやく声を聞いています。けれども、主から授かった私の新しい霊は、銀のラッパのような高い音を立てて、『いや、主は復活される、必ず復活される』と告げるのです。私はその音を聞いています。それなのに、なぜ、この私をも、あなたたちの疑惑の断崖に釘づけようとするのですか!
 私は信じます。主よ、私は信じます。ラザロは深く心を痛めながらも、主のお言葉に従って、ベタニアに止まっています。私はラザロがどんな人間かをよく知っています。決して愚か者でも弱虫でもありません。ですから、主のおそば近くではなく、辛くともかげにかくれている犠牲の道をえらびました。それは武装した兵士たちの手から主を奪いとろうとするよりも、もっと英雄的な行為です。
 私も母マリア様と同じように待っています……さあ、もう出かける時です。夜が白みはじめて来ましたから。これから私たちは主のお墓に向かいます」……
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp10-11 あかし書房)


◆マグダラのマリアの信仰(2)

……ペトロの激しい悲鳴に近い声を聞きつけて、マグダラのマリアが入ってくる。「騒々しい声を立てないでください。母マリア様の耳にも届いていますよ。マリア様はすっかり疲れ果ててぐったりしていらっしゃるのに、あなたの無分別な悲鳴を聞いたら、前のことを思い出して尚更つらい思いをなさるでしょう。黙ってください!」「ヨハネ、マグダラのマリアの言うことを聞いたか? 黙れと私に命じたこの女の言うことは、至極もっともなことだ。あの時……主に聖別された我々男どもは、恐れてただ逃げかくれするだけだった……ああ、私は世間の恥さらしだ……一体私は……私はどんな人間なんだ……」「あなたはただ、高慢な人間にすぎないのよ」と、マグダラのマリアが静かに言う。それから続ける。
「苦しんでいる……それはそうでしょうが……はっきり言わせてもらえば、あなたの苦しみのほとんどは……全部とは言わないにしても……世間の人々から軽蔑される苦しみだろうと言ってもよいと思いますよ。その上まだ愚かな小娘のように泣きわめくなら、私は本当にあなたを軽蔑します。
 してしまった罪は罪です。それを、これから改めるかどうかは、泣きわめくことではないはずです。泣きわめいたら、人はあなたを気の毒に思ってくれるかもしれないけど、それだけでは何一つ片付きません。本当に後悔し改めたいなら、泣きわめかないでもできます。男らしく耐えてください。
 私が……私がどんな人間であったかは、今更言うまでもありませんが、皆知っていることです。でも、私が自分の罪の深さに気付いた時でも、泣いたり叫んだりはしませんでした。皆の同情をひくようなこともしませんでした。世間の人たちは私を軽蔑しましたけれど、それは私の受ける当然のむくいでした。私は皆からあざけられて当然のことをしてきたのですから……。私が主に近づいて行いを変えてからも、軽蔑の視線は変わりませんでした。私がそれまでにどんな生活をしてきたかは皆知っていましたから、主のおそばに仕えても、色々な中傷がありました。でもそれは致し方がないので、私は自分の実際の行いでその軽蔑を一つ一つ消していくより方法はなかったのです。あなたも、叫ぶことをやめて、行いで後悔を示してください……」……
(マリア・ワルトルタ著「復活」pp8-9 あかし書房)


◆マグダラのマリアの信仰

……ヨハネは涙で、あたりがぼやけたまま部屋を出る。壷を取りに戻ったマグダラのマリアも同じ状態なのだが、それども使徒に言いふくめる。「涙を見せてはいけません。そうでないと婦人たちが、もう何も手につかなくなります。いろいろしなくては……」「……また信ずべきです」とヨハネが結ぶ。
「そうです、信じます。信じられないならば、それこそ失望しかないわ。私は信じています。あなたは?」「私も……」「どうもあなたの言葉は弱々しいわね。あなたはまだ十分愛してないわ。『全身全霊を込めて愛する』なら、信じないではいられないはずです。愛は光であり、また光栄です。愛は否定の闇にも死の沈黙にも断言します。『私は信ずる』と」
 マグダラのマリアはその信仰の告白で、背が高くなったようで毅然とし、威厳にあふれている。その胸のうちが拷問でつぶされそうなのは、涙で真っ赤な目が物語っているが、その心は不屈である。その様子にヨハネは心を打たれ、じっと見つめてささやく。「あなたは強い!」 「いつも。世間に挑戦できたほど。その時には神のないものでした。イエズスを持っているいまは、地獄にも挑戦できるとさえ感じています。あなたはいつも良かったのだから、私よりも強いはず。罪は力をくじくものです、衰弱によるよりも。あなたは罪のない人です……そのために、イエズスはあなたをそれほどまでに愛されたのです」「しかし、あなたも愛された……」「私は罪のないものではなかったけれど、イエズスに征服されたのです」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」p394 あかし書房)


◆マリア様の受難(3)

……「そう……平和……ゆるし……おお、神よ! 私はいつか『贖い主であることは何と難しい!』と言ったことがありますが、いまは『贖い主の母であることは何と至難の技か!』と言います。神よ、あわれんでください! あわれんでください! さあヨゼフ、行きなさい。あなたのお母さんは、この二日間苦しみ抜きました。お母さんを慰めなさい。私はここに残ります……私の子のすべてのものと一緒に……ひとりぼっちの私の涙は、あなたに信仰を得させると思います。ヨゼフ、さようなら、私は黙って……考え……祈りたいだけだからと皆に伝えてください。
 私は淵の上に一本の糸でぶら下がっているあわれな一人の女にすぎない。糸とは私の信仰です。あなたたちの『不信仰』は、私のこの糸に絶えずぶつかる……あなたたちは全く信じるということを『知らない』からです……。こうして、あなたたちは私にどんな苦労をさせているかを知らないのです。さあ行きなさい……」
 マリアは一人になり、あの布の前にひざまずいて、御子の額と言わず、目や口に接吻してささやく。「このまま! このまま!……。力をもらうために……『私は信ずべきです。信ずべきです、皆のために』」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp408-409 あかし書房)


◆マリア様の受難(2)

……「イエズスは戻ります。さあ行きなさい。祈って待ちなさい。あなたがひたすら信じるなら、イエズスはより早くよみがえります。このように信じることは私の力です……復活への私のこの信仰が、どのような攻撃にさらされているか、神と私とサタンだけが知っています」 華奢な体つきのヨハンナが、水を吸いすぎた百合のように体をかがめて行ってしまうと、たちまちマリアは苦悶の表情に戻る。「皆に! 私は皆に力を与えるべきです。でも私には誰がその力を与えてくれるのですか」 こう言って、あの布(ベロニカの布)が張られている小箱のそばに腰かけてイエズスの顔をなでる。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp405-406 あかし書房)


◆マリア様の受難

……そうこうしているうちに、最期の晩餐の部屋に向かう道に入る。いまはまるで老婆のように足をひきずって歩いている。「安心してください。もう着きました」
「もう着いたの? 今朝、あんなに長く感じられた道のりは、これほど短かったの? 今朝のことだったのかしら。夕べ、ここに来たときと、今朝ここを出たときから、どれほどの時間、どれほどの年がたったのかしら。私は五十歳の母か、それとも様々な時代を何世紀も曲がった肩に背負っている老婆のようか。私は世界のすべての苦しみを生き、その荷で私の肩が曲がる感じすらします。見えない十字架、だけど何と重い十字架、岩のようで、イエズスの十字架よりも重いかもしれない。なぜなら、いま私は、私の苦しみとイエズスの苦しみの思い出とを感じ、その両方を背負っているのですから。
 入るべきならば入りましょう。でも、これは慰めにはなりません。私の苦しみは増すばかりです。私の子がこの扉から最後の食事のために入った。最後はここから、死を迎えるために出たのです。この扉に向かうユダを見たのです。イエズスを逮捕する人々を呼びに行ったとき。それでも、ユダを呪わなかった。苦しみに身をもむ母のようにユダに話した。良い子のためと悪い子のために、苦しみにさいなまれた母……私はユダを見た! ユダの中に悪魔を見た! ルチフェルを、いつも私のかかとの下に踏みつけた裏切り者を見て、悪魔の顔を知った。私は悪魔と話した……。ユダは逃げたわ。私の声に耐えられなかったから。もう、悪魔はユダから離れ去ったかしら。ヨハネ、ユダを捜して、ユダを見つけても乱暴しないと私に誓って。その権利にある私がそうしないのだから。おお、イエズスが、その最後の食事をした部屋に入らせて。私の子供が平和の最後のことばを言ったあの所へ!」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp376-377 あかし書房)


◆御復活への信仰

 イエズスは御受難の前、弟子たちに何度も「三日後によみがえる」とおっしゃっていました。しかし、イエズスの御死去のあと、イエズスの「復活」を信じていたのは、御母マリア様とマグダラのマリア、そして彼女の兄のラザロだけでした。この大試練の時、使徒たち、弟子たちはその脆弱な信仰と愛を露呈してしまいました。マリア様、マグダラのマリア、ラザロは、散らされてしまった使徒たち、弟子たちを集め、彼らの弱い信仰を支えようと奮闘します。

……マグダラのマリアが苦しむ母を納得させるにたる理由を見つける。「あなたは善いお方です。あなたは聖なる者です。また強いお方です。でも、私たちは何でしょう……ごらんのとおり! 多くは逃げ、残った者は恐れおののいています。私たちの中にある疑心が、私たちを崩してしまうでしょう。あなたは母です。あなたは御子に対する権利と義務だけを持っているわけではなく、あなたの御子のものである人々にも権利と義務を持っておられます。あなたは私たちを集めるために、私たちに安らぎを与えるために、あなたの信仰を注ぐために一緒に戻るべきなのです。あなたは私たちの臆病さと疑心を正しくとがめて後に言われました。『このような役に立たない包帯がなければ、イエズスはもっと楽によみがえります』と。『私たちがイエズスの復活を信じて、また一緒に集まるならば、イエズスはもっと早くよみがえるでしょう』
 こう私は言いたいのです。私たちの愛をもってイエズスを起こさせましょう……。お母様、私の救い主のお母様。神の愛であるあなた、私たちと一緒に戻ってください。あなたの御子の愛を私たちに分かつために! それとも、イエズスがあのようにあわれみ深く救ったマグダラのあわれなマリアがまた迷ってしまうのをお望みなのですか……」
「いえいえ、そんなことをしたらとがめられます。あなたの言うとおりです。私は戻らねばなりません……。使徒たち……弟子たち……親戚たちみんなを……捜すべきです。信じなさい、と言うべきです。イエズスはあなたたちをゆるすと言うべき……これを、だれに言ったのだったかしら……ああ、ケリオット(イスカリオテ)の人に……この人も……この人も捜すべきです……最大の罪人だから……」
 マリアはうなだれたままじっとしていたが、嫌悪で身震いし、それから話す。「ヨハネ、あの人を捜して私のところに連れてきなさい。あなたはそうすべきです。私もそうすべきであるように。父よ、これも人類の贖いのために行われますように。さあ、行きましょう」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp369-370 あかし書房)


◆「共贖者」マリア様

 イエズスが言われる。「その拷問は、断続的な攻撃で日曜日の明け方まで続けられた。私は受難のときに『一つだけ』試みられた。だが母は女だから何度も……。サタンはかの勝利者に対して百倍もの残酷さをもって荒れ狂ったが、マリアはサタンに打ち勝った。しかし、マリアへの最も残酷な試みは母の肉体への試み、母の心への試み、母の魂への試みである。世間は、私が最期の息を引き取ったときに贖いが完成されたと思っているが、そうではない。人間の三重の邪欲を贖うために三重の拷問を加えられ、母がそれを完成させたのである。私のことばを否定させようとし、私の復活を信じないようにさせていたサタンと三日間戦ったのである。 『マリアは信じ続けた唯一の人であった』 この信仰のためにもマリアは偉大で幸せである」
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」p363 あかし書房)


◆墓に葬られたもう

 イエズスが十字架につけられたあたりに園があり、その園にまだ誰もいれていない新しい墓があった。その日はユダヤ人の用意日であり、この墓が近かったので、そこにイエズスを納めた。
(ヨハネによる福音書 第19章41-42節)

……マリアは奉献するとき祭壇に立つ司祭のようである。「主よ、御身の下僕であるわれら、いと高き御稜威(みいつ)に対して御身の賜った贈り物の中から、この清く聖なる汚れなき生贄をささげ奉る」
 次にマリアは振り向いて語りかける。「どうぞ、なさってください。でも『イエズスはよみがえります』 あなたたちは私が正気かどうかと疑っているけれど無駄なことです。イエズスがあなたたちに言われた真理に対して盲目になっています。サタンは私の信仰にわなをかけようとするけれども無駄なことです。この世を贖うには敗北したサタンが私の心に与える拷問もあります。私はこれも耐え忍び、未来のすべての人々のためにささげます。
 さようなら、子よ、私の産んだものよ、さようなら。私の幼な子よ、さようなら、さようなら……」
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」p362 あかし書房)

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◆マリア様の嘆き

……ニコデモとヨゼフとが、石の向こう側にある腰かけのようなものに壷と包帯と清い長い布を用意して、水が入っているらしい洗面器と丸めたガーゼを置いて近づいてくる。マリアはそれを見て強い口調で問いただす。「あなたたちはそこで何をしているの。何をしたいのですか。イエズスを整える? どうして? 母のひざに置いておきなさい。もしイエズスを暖められたなら、もっと早くよみがえるでしょうから。もしも私が御父を慰めることができたら、神殺しのその憎しみを消すことができたら、父はもっと早くゆるしてくださり、そして、イエズスは早く戻ってきます」……
「……あなたたちはその復活を信じていないのが自分でわからないのですか? 信じているですって? とんでもない。ではどうしてそこに布と包帯と香料を用意しているの? あなたたちがイエズスをもう冷たくなって明日は腐敗するあわれな死人と考えているからでしょう。そのために防腐処置を施したいのでしょう。……私が涙でイエズスを洗いました。これで十分、他のことは要りません。……この恐ろしい一日が皆の頭を狂わせてしまったのですか。それとも忘れたのですか。覚えていないの? 『この悪いよこしまな代はしるしを望むが、預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられない。……こうして人の子は三日三晩地の中にいる』 覚えていないのですか。『人の子は人間の手に渡され、殺されるだろう。しかし三日目によみがえるだろう』 本当に覚えていないの? 『まことの神のこの神殿を壊しても、私は三日間でこれを建て直す』 人々よ、神殿とはイエズスの体です。うなずけないと言うの? 私のことをかわいそうに思うの? 私の気が狂ったと思っているのですか。どうして、どうして、イエズスは死者をよみがえらせたのに自分自身をよみがえらせられないことがあるものですか。……」
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp358-359 あかし書房)


◆十字架より降ろされたもう

 ユダヤ人を恐れてひそかに弟子になっていたアリマタヤのヨゼフが、その後イエズスのお体を取り下ろしたいとピラトに願ったので、ピラトはゆるした。彼はそのお体を取りはずしに行った。また、前に夜中にイエズスのもとに来たニコデモも没薬と沈香を混ぜたものを百斤ばかり持ってきた。彼らはイエズスのお体を取りはずし、ユダヤ人の葬りの習慣どおり、香料とともにそのお体を布で巻いた。
(ヨハネによる福音書 第19章38-40節)

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永遠のあわれみの聖心が開かれる

 その日は用意日だったので、安息日に体を十字架の上に残しておかぬように - この安息日は大祭日であったから - ユダヤ人たちはピラトに、彼らのすねを折って取り除くようにと願ったので、兵隊たちが来て、まず共に十字架につけられた一人、そしてもう一人のすねを折った。しかしイエズスの所に来るともう死んでおられたので、そのすねを折らなかった。そのとき一人の兵士がやりで脇を突いたので、すぐ血と水が流れ出た。これを見た者が証明する - この証明は真実である。自分の言葉が真実であることをその者は知っている - それはあなたたちを信じさせるためである。こういうことが起こったのは、「その骨は一つも折られないであろう」という聖書のことばを実現するためであった。また、「彼らは自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見る」という聖書のほかのことばもある。
(ヨハネによる福音書 第19章31-37節)

……ロンジーノがヨハネに近づき、何ごとか語りかける。そして、一人の兵士から槍を受け取ると婦人たちの方を見る。婦人たちはようやく力を取り戻したマリアの介抱に懸命で、みな十字架に背を向けている。ロンジーノは十字架の真ん前に仁王立ちになり、ねらいを定めてぐさりと突き刺す。槍の広い穂が、下から上へ、右から左へ深く入る。ヨハネは見たいという望みと見たくないという恐れに引き裂かれて、一瞬、顔をそむける。
「もう、終わった、友よ」と、ロンジーノが声をかけ、たたみ込むように続ける。「この方がよい。騎士に対してするように。これなら骨を折る必要もない。……この人は本当に義人だった!」 その傷から大量の水と、すぐに固まりかける一筋の糸のような血がつーと流れ出る。じっとして動かないその傷から。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」p342 あかし書房)


御死去の直後

 実にそのとき神殿の幕は上から下に二つに裂け、地は震い、岩は割れ、墓は開き、眠っていた聖徒の屍は数多く生き返り、イエズス復活の後、墓を出て聖なる町に入り、多くの人々に現れた。
(マテオによる福音書 第27章51-53節)


◆十字架上の御死去

……やがて息も絶え絶えになり、腹部はもう動かず、かすかに胸部だけが上下しているが、肺の麻痺は進む一方である。「母様……」と呼ぶ、幼いころに戻ったような声もだんだん消え入りそうになる。「ここに、ここにいます。私の愛するもの」と、あわれな母は答える。イエズスの目はもう見えない。「母様、どこにいるの。もう見えない。母様まで私を見捨てるのですか」 もう声にはならず、耳ではなく心で、いまわのきわの吐息のようなささやきを聞き取るしかない。「いいえ、いいえ、子よ! 私はあなたを見捨てることなどありません! 私の愛するもの、私を感じて! 母様はここにいます。あなたのいるところへ行かれないのが身を切られるようにつらい……」と母は答える。……
……ロンジーノは直立不動の姿勢をとり、左手を刀に、右手は規則どおりぴちっと脇にあてて、皇帝の玉座の前で敬礼しているように緊張し感情を押し殺している。しかし、必死に耐えている顔がゆがみ、目にはこの人の鉄の意志だけがとどめている涙がにじみ、きらりと光る。……

……あたりを沈黙が支配し、やがて真っ暗闇の中ではっきり聞こえる。「すべては成し遂げられた!」……しばらくして限りない優しさ、たぎるような調子での祈願が聞こえる。「父よ、私の霊を御手にゆだねます!」 また沈黙に戻る。喘鳴も軽くなり、のどと口だけでしかされていない息づかいが聞こえてくるだけである。
 そしてイエズスの最後のけいれんが起こる。三本の釘で木に打ちつけられている体を引き抜いてしもうようなよじれが、足の先から頭のてっぺんまで三度繰り返され、腹部が異様な形で持ち上がり、胸部はふくれ、収縮する皮膚は肋骨と肋骨の間に入り込み、鞭打ちの傷がまた裂けて、一回、二回、三回、がつんがつんと頭を木に激しく打ちつける。顔の筋肉のすべてがゆがんで右の方へ口がねじまがっているのを目立たせる。かっとまぶたが見開かれ、眼球ときょう膜がぐるぐる動くのが見え、体全体が硬直している。最後の動きは、けいれんと収縮で弓形にそり返り、その姿は見るだけでも恐ろしい。そしてそのような疲れはてた体からは想像もつかないような『大きな叫び』が発せられる……それから、もう何も……。
 頭ががっくりと胸に垂れ、体はだらりと前方にぶら下がった形となり、呼吸も停止する。息を引き取られた。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp337-338 あかし書房)

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「渇く」

……闇が濃くなって、エルサレムは全く見えず、カルワリオのふもとさえも視界から消える。唯一の残照を集めて、オニキスを溶かしたような小さな池の上に、頂だけが愛と憎しみとから見られるようにその神的なトロフィーとして立っている。もう光とも呼べないほどの光の中に、イエズスの嘆きの声が聞こえる。
「渇く」
 実際、元気な人でさえ渇いてしまう風が吹きすさぶ。目を開けていられないほどのほこりを吹きつけ、身を切るように冷たい恐ろしい風がやむことなく続く。その激しい息吹は、イエズスの肺、心臓、口、凍える手足、麻痺している傷だらけの体をどれほど苦しめたか。その殉教者を、この世のすべてがさいなんでいるように見える。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」p336 あかし書房)


御父からの放棄

……いつの間にか、イエズスは前方にだらりと下がって死人のように動かなくなり、息づかいも聞こえない。頭が前方に垂れている。マリアが、「死んだ!」と悲痛な叫びを上げる。……石が命中して、悲鳴を上げてイエズスの意識が戻る。胸はまた苦しそうに小刻みに上下し、苦しみを少しでも減らそうと頭の向きを右から左へ変えるが何の効果もない。イエズスは傷だらけの足を踏ん張って、その意志力だけで健康な人間であるかのように背筋を伸ばし、顔を上げ、大きく目を開けて自分の足元に広がる世界、もやの向こうにうっすらと見える白く包まれた遠い町、光のなごりさえもすっかり消えてしまった暗い空を眺め、大きな石でふたをしたような暗くて低い空に向かって、自分の心の望みと意志力から、こちこちに固まった顎、からからに乾いた舌、はれてつぶれているのどをもものともせず、大声で高く叫ぶ。
「エロイ、エロイ、ランマ、シェーバクテーニ!」(神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたのですか) このような声で御父からの放棄を告白するからには、天から完全に見捨てられて死ぬと感じているに違いない。……
……大なる生贄の孤独で、超自然的にも残酷な臨終である。ゲッセマニで苦しんだ悲惨な押しつぶされそうな苦しみが、山津波のようにまだ押し寄せる。罪のない殉教者を苦しめるために全世界のあらゆる罪の波が押し寄せる。この上なく、十字架にかけられるより苦しい。神に見捨てられ、祈りももう神まで昇らないという、どんな拷問よりも絶望的な気持ちにとらわれる。これは最後の拷問である。この神からの放棄という拷問は血の最後の一滴をしぼり、イエズスの死を早める。
 おお神よ、私たちのためにあなたがお打ちになった私のイエズスは、他のことよりも、何よりもそのために死なれた! あなたの放棄の後、あなたの放棄によって人はどうなるのか。狂気か、死かのどちらかである。その知恵は神的であったので、イエズスは狂気になれなかったけれども、死ぬ者となった。いと聖なる死に、罪なき死人となった。命であったイエズスは死んだ。あなたの放棄とわれらの罪によって殺された。
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp335-336 あかし書房)


イエズスの遺言

……実際、多くの人々が、次第次第にこの世界を包んでいく光に気をとられ、中には怖がっている人もいる。兵士たちも峰々の向こうから真っ黒な円錐形の雲が、杉の木のように空高く揚がっていくのを見る。それは竜巻のようにも見える。あれよあれよと言う間に高くなり、煙と溶岩を噴出している火山のように黒雲がわき起こる。
 たそがれのような気味の悪い光の中で、母はわが子に近づくために十字架の下ににじり寄ってきたので、イエズスはマリアにヨハネを、ヨハネにマリアを与えようと顔を垂れて話しかける。「婦人よ、これはあなたの子です。子よ、これはあなたの母です」と言われた。
 イエズスの遺言でもあるこの言葉、人間への愛のためにマリアから生まれた神なる人間でありながら、自分の母に一人の人しか与えられないこの言葉を聞いて、マリアはその顔を曇らせる。あわれな母はおえつをもらす。その口元には苦しいほほえみ、イエズスのためのほほえみ、イエズスを慰めるためのほほえみをたたえてはいても、知らず知らずに涙がはらはらとこぼれ落ちる。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」p332 あかし書房)


よい盗賊 (3)

 その時、イエズスが初めて口を開く。
「父よ、この人たちをおゆるしください。この人たちは何をしているか知らないのです!」
 この祈りは、ディスマの恐れをすべて一掃するもので、キリストをじっと見つめて言う。
「主よ、あなたの国に入るとき、私のことを思い出してください。私はここで苦しむのが当然ですが、私にこの命のかなたにあわれみと平和をください。いつだったか、あなたが話しておられるのを聞いたが、その時その言葉を受け入れようとしなかったのを、今は後悔しています。私の罪をいと高きものの子である、あなたの御前に痛悔します。私はあなたが神から来られたものであると信じ、あなたの力とあわれみとを信じています。キリストよ、あなたのお母さんとあなたのいと聖なる父の御名で私をゆるしてください」
 イエズスがそちらに顔を向け、深いあわれみをもってディスマに目を止め、はれ上がった無惨な口に、何とも言えない美しいほほえみを浮かべて、
「私はおまえに言う。きょう、おまえは私と一緒に天国にいるはずです」と告げる。
 回心した強盗はすっかりおとなしくなり、祈ろうとするけれども、子供のころ習った祈りをいまはもう覚えていないので、射祷のように繰り返す。
「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス、私をあわれんでください。ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス、私はあなたに希望する。ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス、私はあなたが神であると信じます」
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よい盗賊 (2)

……狭い広場から追い出されたユダヤ人々たちは罵詈雑言を浴びせ続け、回心する様子もない強盗の一人は自分もそれに加わる。ますます大きなあわれみをもってマリアを眺めるもう一人の強盗は泣いており、皆の侮辱にマリアも含まれているのを聞くと、激しく相手を責める。
「黙れ! おまえだって女から生まれたのではないか。おふくろがおれたちのような子供をもってどれだけ泣いたかを考えろ。それは恥の涙だった。おれたちは犯罪者だったから。おれたちのおふくろはもう死んだ……私は手を合わせてわびたいが、できるだろうか。おふくろは聖人のような人だったのに、おれが与えた苦しみがもとで死んだ……おれは罪人だ……おれをだれがゆるしてくれるのか。お母さん、いま死にいくあなたの子の名前で頼むが、おれのために祈ってください」
 一瞬、マリアは自分の苦しみに覆われている顔を上げて、自分の母を思い出してイエズスの母を見つめ回心に近づくあわれな人を見る様子は、雌鳩のようなまなざしでこの人をいつくしむかに見える。ディスマ(強盗の名)は、一段と激しく泣く。これは群集と他の仲間のあざけりをあおる結果となる。
「けっこうなことだ。この女を自分の母とすればよい。そうしたら、この女は犯罪者の子を二人もつことになる」と群集が言う。また仲間は、「あの女がおまえを愛するのは、おまえが自分の最も愛する子のかたどりだからだ」と言う。


よい盗賊 (1)

マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」(あかし書房)p328~(抜粋)

……しかし、右側の十字架にかけれらた強盗は侮辱し続け、人の行う冒瀆すべてを要約するかのように、考えられる限りの侮辱を繰り返して最後にこう結ぶ。
「信じられたいと思うなら、まずお前自身とおれたちを救え。キリストなのか、おまえが。気違いめ! 世界は賢い人々のものだ。神なんかいない。おれがいるということこそ事実だ。おれにはどんなことでもゆるされる。神か……そんなものは、おれたちを静かにさせるためのおとぎ話さ……」
 聖母マリアがその足元近くにいる左側の強盗は、キリストよりもマリアを見て、少し前から涙を流しており、「お母さん」とつぶやく。それから右側の強盗に向かって、
「おまえは黙れ! この罰を受けていながら、今もまだ神を恐れないのか。この善いお方を、なぜ侮辱するのか。この方は何も悪いことをしなかったのに、私たちよりも厳しい拷問を受けている」と声を荒げるが、悪い強盗は相変わらず呪い続けている。……


◆イエズス、十字架に釘付けにされたもう

 いま、そのすらりとした長身を、黒っぽい木の上に横たえ、黄色い地面の上に際立っている。二人の執行人は、イエズスが動かないようにその胸に腰かける。その重さはどれほど胸を圧迫し、苦しめたことか。三人目の執行人は、イエズスの右腕と右手の指を両手で押さえる。四人目の執行人が、丸くて平らな十銭玉くらいの大きさの頭をした長い四角い釘を持って待ちかまえており、木に開けた穴がとう骨と尺骨の合わさった手首の関節のところとぴったり合っているかどうかを確かめる。合っていると見て、男は金づちを振り上げ、手首に先端を突き刺した釘めがけて最初の一撃を加える。目を閉じていたイエズスは、鋭い痛みにあっと叫び、手のひらを握りしめて、涙に泳ぐ目を開ける。その痛みは想像にあまりある。釘は筋肉、脈、神経を引きちぎり、骨を砕いて貫通する。
 マリアは拷問を受けている、わが子の叫びに屠られる小羊の悲鳴を重ね合わせ、折れた茎のように頭を抱えてしゃがみ込む。イエズスは母を苦しめないように、二度と悲鳴を上げないが、鉄と鉄がぶつかる激しい音は調子をとりながら続く。そうされているのが生身の体だと思うと……
……荒々しい鉄の音の陰に、雌鳩のような悲鳴が秘められている。金づちが殉教者の母の体を打っているかのように、マリアはその音が聞こえるたびに低く低くかがみ込み、かすかな悲鳴をもらす。はりつけとは、何と恐ろしい刑罰か。その苦痛から言えば鞭打ちも同じかもしれないが、見るに耐えないほどすさまじい。なぜなら、次第次第に釘が生きる肉の中にしずんでいくのが見えるからである。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp321-323 あかし書房)

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◆イエズス、衣をはがされたもう

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◆イエズス、3たび倒れたもう

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◆イエズス、エルサレムの婦人たちを慰めたもう

 大群の人々と、イエズスのために嘆き悲しむ婦人たちが後についていた。イエズスは婦人たちの方をふり向いて言われた。「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くことはない。むしろあなたたちと、あなたたちの子らのために泣け。『うまずめ、子を生まなかった胎、飲ませなかった乳房は幸いだ』と言う日が来る。その時、人々は山に向かい『我々の上に倒れよ』、また丘に向かい『我々を覆え』と言うだろう。生木さえもそうされるなら、枯木はどうなることか」
(ルカによる福音書 第23章27-31節)

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◆イエズス、再び倒れたもう

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◆イエズス、御顔を拭いたもう

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◆イエズス、御母に会いたもう

……ロンジーノはこう言いながら、イエズスを指差すために頭をめぐらせたとき、通してもらいたくて兵士にすがっているマリアが目に入る。ロンジーノはあわれに思って叫ぶ。「その婦人を通せ!」 それからキレネの人に向かって命じる。「イエズスはあの荷を背負ってはもう歩けない。おまえは強い。あの十字架を担い、あの人のために運べ」……
……イエズスは、いま初めて見た母の方へ顔を向けている。いままで体を折り曲げ、ほとんど目を閉じて進んで来たからである。そして、今、「母様!」と絶叫する。様々の拷問にひたすら耐えたイエズスが、いま初めてその苦しみを表す。その叫びに、心と肉体との恐るべき苦しみの告白がありったけ込められている。残酷な人間たちにより、最も恐るべき拷問の中で死んでいこうとする子供の、胸をかきむしる叫びである。いま、死刑囚は母を望んでいる、母だけを。その優しい接吻だけが熱をさまし、その声だけが幻を追い払い、その抱擁だけが死の恐ろしさを和らげる……。マリアは、短刀で刺されたかのように胸に手を持っていき、よろめくが、気をとり直して足を早め、両腕を広げて、もだえるわが子の方へ近寄って叫ぶ。「子よ!」 そのことばの調子を聞いて心が張り裂ける思いがしないのは、ジャッカルの心の持ち主だけである。ローマ人の兵士たちの中にも、あわれみの動揺が広がる。戦士であり、人殺しを初めて見るわけでもない人たちにも……。
「母様!」「子よ!」 繰り返し、こう呼び交わされ、ジャッカルほどは悪くないすべての人々の間に、あわれみの波が押し寄せる。キレネの人には、このあわれみの心がある……十字架に邪魔されて、マリアがわが子を抱けず、差し伸べた腕をだらりと下げたのを見ると、あわてて十字架に飛びついて、父のような心遣いで、冠に触れないように、また傷をこすらないように、細心の注意を払ってそれをよける。それでもマリアは、わが子に接吻できない。傷だらけの肉体は、ほんのちょっと触るだけでも拷問となるのでマリアは遠慮するし、その上、最も清い心には深い慎みがあり、繊細な心ほど同情の気持ちが深い。そして、いたく苦しんでいる二人の心だけが愛し合って接吻する。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp313-314 あかし書房)

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◆はじめて倒れたもう

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◆十字架を担いたもう

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ヨハネは御母を迎えに行く

「ゆるしてください! ゆるしてください! お母様、ゆるしてください!」 マリアは立ち上がり、片方の手を胸に当て、もう一方はだらりとさせて悲しそうな声をしぼり出す。「私は何をゆるせばよいのですか。あわれな子供よ、何を? あなたに!」 ヨハネが泣きじゃくる子供そのものの顔を上げて叫ぶ。「イエズスを残して逃げたこと、守らなかったこと。おお、先生! ゆるして! あなたから離れる前に私は死ぬべきだった! お母様、いまはだれが私からこの呵責を取り除けるのでしょうか」「ヨハネ、安心して! イエズスは、あなたをゆるします。もうゆるしたのです。あなたの一瞬の迷いを気にはしません。あなたを愛しているから」……「けれど……私は夕べでさえイエズスを理解していなかった……私たちの徹夜の祈りを頼まれたのに、私は眠ってしまった。イエズスをひとりぼっちで残して……私のイエズスを! そしてかの呪われたものが、あのやくざ者と一緒にやって来たとき、私は逃げた……」 「ヨハネ、呪ってはなりません。憎むのはよしなさい。ヨハネ、裁きは御父にまかせましょう。聞きなさい、イエズスはいまどこにいるのですか」
 ヨハネは、また顔を床につけて、一層激しくすすり泣く。「答えなさい、ヨハネ。私の子はどこにいるのですか」 「お母様……私が……イエズスが……お母様……」 「もう判決を受けたのは知っています。ただ、いまどこにいるのか……知りたいだけです」 「イエズスに見られないように、できるだけのことをしました……あわれみを得るために有力な人に頼み込んだり……イエズスをあまり苦しめないように。そして……あの人たちは、あまり痛めつけなかった……」
「うそをついてはいけません、ヨハネ。この母へのあわれみであるとしても。どうせできないでしょうし、また無駄なことです。『私は知っています』 夕べから苦しんでいるイエズスを追っていました。あなたは見ないでしょうが、私の肉体はわが子の鞭打ちを感じ、私の額には茨のとげが刺さります。私はすべてを感じました。でも、いま……もう何も見えない。十字架に定められた私の子が、どこにいるかも分からない……十字架に!……十字架に!……定められたわが子……おお、神よ、私に力をください。イエズスは私を『見るべき』です。イエズスが苦しんでいる間、私は自分の苦しみに浸っている暇はありません。すべてが……終わる時、神よ、お望みなら私を死なせてください。今ではなく……。わが子のために、今ではなく。イエズスが私を見ますように。行きましょう、ヨハネ。イエズスはどこにいるのですか」
「ピラトの家を出発するところです。いま聞こえるあの騒ぎは、総督館の階段の上に縛られたまま十字架を待っているイエズスのそばか、もしかすると、もうゴルゴタに向かって歩いているイエズスを囲む群衆の声です」
「ヨハネ、あなたのお母さんと、他の婦人たちに知らせなさい。行きましょう、その杯とパンと布を持ってきて……。ここに置いてください。後で……慰めとなります……さあ、行きましょう」……
……ヨハネがすすり泣く婦人たちと一緒に入ってくる。「娘たちよ! 黙って! 私が泣かないように力づけてください! 行きましょう!」 目が見えないかのように、支え導くヨハネにもたれて歩き出す。
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp298-300 あかし書房)


◆イエズス、死刑を宣告されたもう

 ピラトはまた外に出て、人々に、「どうだ。この人をおまえたちの前に連れ出した。この人に私が何の罪も見出さなかったことを知らせるために」と言った。イエズスが茨の冠をかぶり、緋色のがいとうを着て外に出られたとき、ピラトは「見よ、この人を」と叫んだ。司祭長と守衛どもはイエズスを見て、「十字架につけよ。十字架につけよ」と叫んだ。……それは過越しの用意日で、12時ごろのことであった。ピラトがユダヤ人に「これがおまえたちの王だ」と言うと、彼らは「殺せ、殺せ。十字架につけよ」と叫んだ。ピラトが「私がおまえたちの王を十字架につけるのか」と言うと、司祭長たちは「私たちの王はチェザルのほかにはありません」と答えた。そこでピラトは、イエズスを十字架につけるために彼らに引き渡した。
(ヨハネによる福音書 第19章4-16節)

 自分の努力も実らず、むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは、水を取って民の前で手を洗い、「この男の血について私には責任がない。おまえたちで責任を取れ」ろ言った。民は「その血は我々と我々の子孫の上にかかってよい」と答えた。
(マテオによる福音書 第27章24-25節)

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◆茨の冠

 兵卒たちは茨で冠を編み、その御頭にかぶらせ、緋色のがいとうを着せ、近づき、「ユダヤ人の王よ、あいさつします」と言い、平手打ちをした。
(ヨハネによる福音書 第19章2-3節)

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◆鞭打ち

ピラトはイエズスを連れ出して、むち打たせた。
(ヨハネによる福音書 第19章1節)

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◆不正な裁判(2)

 夜明けになると、イエズスを殺そうと協議した司祭長と民の長老たちは、イエズスを縛って総督ピラトのもとに引き立てていった。
(マテオによる福音書 第27章1節)

 列席の皆は立ち上がり、イエズスをピラトの前に引いていき、「私たちはこの男がわが国民を乱し、チェザル(皇帝)に税を収めることを禁じ、また、自ら王キリストだと言っているのを聞きました」と訴えた。ピラトが「おまえか、ユダヤ人の王は」と尋ねると、「そのとおりである」と答えられた。ピラトは司祭長たちと群集に、「私はこの男に何の罪も認めぬ」と言ったが、彼らは「この男は、ガリラヤから始まりここに至るまで全ユダヤで教え、人々をあおりたてます」と言い張った。それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあるのを確かめ、そのころヘロデがエルサレムにいるのを幸い、イエズスをそちらに送った。ヘロデはイエズスを見て大いに喜んだ。ずっと前からイエズスについて聞いていたので、会いたいと思っており、イエズスが何か奇跡を行うのを見たいと思っていたからである。彼はいろいろ尋ねたが、イエズスは一言も答えたまわなかった。司祭長たちと律法学士たちもそこにいて、激しくイエズスを訴えたので、ヘロデは兵卒とともにイエズスを侮り、嘲笑い、はなやかな服を着せて、ピラトのもとに送り返した。ヘロデとピラトは前には敵であったが、その日から互いに友誼を結んだ
ピラトは司祭長たちとかしらたちと民を集め、「おまえたちはこの男を、民を扇動する者として、私の前に引いてきた。おまえたちの前で調べたが、訴えることについて、この人には何一つとがめることがなかった。なおヘロデもそう思ったから、この男を我々に送り返してきた。見るとおりこの男は死に当たることを何一つしていない。だから、こらしめてからゆるすことにする」と言った。
(ルカによる福音書 第23章1-16節)


ペトロは主を否む

 さて、外の庭に座っていたペトロのもとに、下女が一人近寄ってきて、「あなたもあのガリラヤのイエズスと一緒にいた人ですね」と言った。ペトロはみなの前でそれを否み、「何のことを言っているのかわからぬ」と答えた。そして門を出て行くともう一人の下女が見とがめて、そこにいた人々に「この人もナザレ人のイエズスとともにいた人ですよ」と言った。ペトロはふたたびそれを否み、「私はそんな人を知らぬ」と誓って答えた。しばらくしてそこにいた人々が近づき、「いや、あなたは確かに彼らの一人だ、方言でわかる」と言った。ペトロは「私はそんな人を知らぬ」とはっきり否み、のろい始めた。おりしも雄鶏が鳴いた。ペトロは「雄鶏の鳴く前にあなたは三度私を否む」と言われたイエズスの言葉を思い出し、戸外に出て激しく泣いた。
(マテオによる福音書 第26章69-75節)

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◆不正な裁判

 人々はイエズスを捕らえ、律法学士と長老たちの集まっている大司祭カヤファの家に引いていった。遠く離れてその後をつけ、大司祭の庭に来たペトロは、成り行きを見ようとして中に入り、下男とともに座っていた。司祭長と全議員はイエズスを死刑にする偽りの証言を求めていた。多くの偽証人が来たけれども、これという証拠は上がらなかった。その後、二人の男が来て、「彼は、『私は神殿を壊して三日で建て直せる』と言いました」と言った。大司祭は立ち上がって、「一言も答えないのか。この者たちが示している証拠はどうだ」と尋ねたが、イエズスは黙して語らなかった。大司祭はまた「私は生きる神によっておまえに命じる。答えよ、おまえは神の子キリストなのか」と聞いた。するとイエズスは「そのとおりである。私は言う、人の子が全能なるものの右に座り、天の雲に乗り来るのをあなたたちは見るであろう」と言われた。そのとき大司祭は自分の服を裂き、「この男は冒涜を吐いた。どうしてこれ以上証人がいろう。みなも今冒涜のことばを聞いた。どうだ」と言うと、彼らは「この男は死に値する」と答えた。そして彼らはイエズスの顔につばをかけ、こぶしで打ち、平手でたたき、「キリストよ、当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と言った。
(マテオによる福音書 第26章57-68節)


◆イスカリオテのユダの自殺

イエズスが言われる。
「あまりにも大勢の人々が、ユダの罪はそれほどのものではないと思っている。のみならず、ユダなしに贖いが行われ得なかったので、かえってその貢献のために神のみ前に弁護されているとまで言う人々もいるほどである。しかし、私はまことに言う。もし地獄が、そのすべての苦しみを含めてまだ存在していなかったならば、ユダのために造られたはずである。ユダは、すべての罪人と滅びた人々の中で最も大なる罪人で、根こそぎ滅びた人だからである。
 その良心の呵責によって - もし、その呵責が後悔となったならば - 救われることもできたのに、ユダは後悔しようとしなかった。私のあわれみ深い愛では、まだ同情の余地ある裏切りの犯罪に冒涜を加え、様々の思い、恐怖、私の血とマント、私のまなざし、ご聖体の残りの血、私の母の言葉などを通して、飽くことなく話しかけていた恩寵の声にあらがったのである。ユダは裏切るのを『欲した』と同じように、すべてに抵抗することも望んだ。その裏切り、その呪いは、自殺と同じように、自由に自分が選んだものである。『すべての物事において、最も重大なのは自由意志である』 善においても、悪においても。……
……私の母は - マリアにおいて話していたのは、私の恩寵また私の名前でゆるしを提供していた私の宝の保管者であった - こう言った。『ユダ、悔い改めなさい。イエズスはゆるすものです』 そうだとも。私はどんなにユダをゆるしたかったか。ユダが母の足元にひれ伏して、『あわれんでください』とひとこと言ったならば、かのあわれみ深い婦人は負傷者を助けあげるようにして、敵が犯罪をそそのかした悪魔的な傷の上に人を救う自分の涙を流し、ユダがサタンに奪われないように、また弟子たちに打たれないように、その手をとって十字架の足元まで連れて行き、私の血が罪人たちの中の最大の罪人であるユダの上に、誰よりも早く注がれるようにしただろう。そして、清さと罪との間、自分の祭壇の上に『女司祭』としてマリアは立っただろう。マリアは童貞者たちと聖人たちとの母であると同時に『罪人の母』でもあるから。しかし、ユダは望まなかった。おまえたち人間の自由意志の力を黙想せよ。それはすべておまえたちの手に握られている。それによっておまえたちは天国あるいは地獄を得ることができる。罪の中にかたくなにとどまるとはどんなことか深く黙想しなさい。……」
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp292-294 あかし書房)


◆イスカリオテのユダの裏切り

また、話しておられると、12人の弟子の一人のイスカリオテのユダが来た。司祭長たちや民の長老たちから送られた多くの人々も、剣と棒を持ってついてきた。裏切り者は「私がくちづけするのがその人だから、それを捕らえよ」と合図してあったので、すぐイエズスに近寄り、「ラビ、あいさつ申し上げます」と言ってくちづけした。イエズスは「友よ、あなたがしに来たことをせよ」と言われた。人々は進み出てイエズスに手をかけて捕らえた。すると、イエズスとともにいた一人が剣に手をかけて抜き放ち、大司祭の下男に打ちかかり、その耳を斬り落とした。そのときイエズスは言われた。「剣をもとに収めよ。剣をとる者は剣で滅びる。私が父に頼めば、今すぐ12軍にもあまる天使たちを送られることを知らないのか。だがそうすれば、こうなるであろうと書かれている聖書がどうして実現しよう」 それから人々のほうを向き、「あなたたちは強盗に立ち向かうように、剣と棒を持って私を捕らえに来たのか。私は毎日神殿に座って教えていたのに、今まで捕らえようとしなかった。だが、こうなるのはすべて預言者の書を実現するためである」と言われた。そのとき弟子たちはみなイエズスを捨てて逃げ去った。
(マテオによる福音書 第26章47-56節)

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◆ゲッセマニの園での祈り

 イエズス様は「最後の晩餐」の館を出て、ゲッセマニの園に向かいます。ここで最後の試練のために御父に祈るためでした。イエズス様の人間性は全人類の犯した、またこれから犯すであろう罪に直面し、血の汗を流すほど煩悶されます。

 さて、イエズスは弟子たちとともにゲッセマニというところに行き、弟子たちに「私があそこへ行って祈る間、あなたたちはここに座っておれ」と言われ、ペトロとゼベデオの二人の子を連れてそこに行き、憂いと悲しみに捕われだし「私の魂は死なんばかりに悲しむ。あなたたちはここにいて、私とともに目を覚ましていてくれ」と言われ、少し進んでひれ伏し、「父よ、できればこの杯を私から取り去りたまえ。けれども私の思うままではなく、み旨のままに」と祈られた。それから、弟子たちのところに帰ってこられると、彼らが眠っているのを見、「そんなふうにしてあなたたちは、一時間さえ私とともに目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈れ。心は熱しても肉体は弱いのだ」とペトロに言われ、ふたたび行って、「父よ、この杯を私が飲まずには過ごせぬものなら、なにとぞみ旨のままに」と祈られた。それからまた帰ってきて、弟子たちがまた眠っているのを見られた。弟子たちの目は重くなっていた。また彼らを離れ、三度同じことばで祈ってから、弟子たちのところに来て、「もう眠って休むがよい。人の子が罪人の手にわたされるときは近づいた。さあ立って行こう。見よ、私を裏切る男は近づいた」と言われた。
(マテオによる福音書 第26章36-46節)

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◆最後の晩餐

 イスラエルの一番大事な行事「過ぎこしの祭り」が行われる日、イエズス様は最愛の12人の使徒たちとともに、「過ぎこし」の最後の晩餐をとられます。「過ぎこしの祭り」は、約1250年前(今から約3250年前)、エジプトで奴隷化され迫害されていたイスラエルの民を、神様の命令を受けたモーゼが導き、エジプトを脱出した日を記念して行われてきたものです。この時イスラエルの民は神様の命令に従い、傷のない一歳の小羊を屠り、その血をかもいにつけた家を天使たちは過ぎこし、全エジプトを襲った災いはイスラエルの民におよびませんでした。この「過ぎこしの小羊」は、まことの「神の小羊」イエズス様の象徴でした。
 この「最後の晩餐」において、イエズス様は「ミサ」を制定されました。ご自身を私たちにお与えになるほど、へりくだられたのです。

 夕暮れになったので、イエズスは12人の弟子とともに食卓につかれた。食事の間にイエズスは「まことに私は言う。あなたたちのうちの一人が私をわたすだろう」と言われた。弟子たちはたいそう心配して、「主よ、それは私ですか」と口々に聞いたが、「私とともにさらに手をつけるのが私をわたす者だ。人の子は自分について書かれているとおりに行くが、人の子をわたすのは呪われた者だ。その者はむしろ生まれぬほうがよかった」と答えられた。イエズスをわたそうとしていたユダが「ラビ、それは私ですか」と聞くと、「そのとおりだ」と答えられた。
 食事の間イエズスはパンを取り、祝し、裂き、それを弟子たちに与えて言われた。「取って食べよ。これは私の体である」 また。杯を取り、感謝し、彼らに与えて言われた。「みなこの杯から飲め。これは多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す、契約の私の血である。私は言う。父の国であなたたちと新しいぶどう酒を飲む日まで、これから私はもうぶどうの液を飲まぬ」
 彼らは賛美歌を歌って後、オリーブ山に出ていった。そのときイエズスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたたちはみな私についてつまずくだろう。『私は牧者を打ち、そして羊の群れは散る』と書かれているからだ。だが私はよみがえってのち、あなたたちに先立ってガリラヤに行く」 ペトロが「たとい、みながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と答えると、イエズスは「まことに私は言う。今夜雄鶏が鳴く前に、あなたは三度私を否む」と言われた。ペトロは「私はあなたとともに死ぬことになっても、あなたを否みません」と言った。弟子たちはみんなそう言った。
(マテオによる福音書 第26章20-35節)

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最後の晩餐の前、母からの別れ

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (7) -

……イエズスは物思いにふけりがちで、どんなにほほえもうとしても悲しそうである。マリアは心配そうにその顔を見つめている。いまの時がどんな時か、神の恩寵と愛とによって分かっている母があわれである。マリアの顔が苦痛にゆがみ、心の中の大きな苦しみを見るかのようにその目が大きくなる。しかし、それとわかるしぐさはせず、子と同じく毅然としている。イエズスは母にあいさつして、その祈りを請い願う。
「母様、私はあなたの力と慰めをかりるため、ここに来ました。……私には母様しかいない。いま、人間はあなたのイエズスの忠実な友ではないし、善を行う勇気さえもないものです。……母様、母様の愛と祈りで私を支えてください。多少私を愛している人々の中で、いまこの時に祈れるの母様しかいない。……母様、私はこの時のために来たのです。超自然的に言えば、喜びをもってこれを迎えます。それでも私の自我は恐れを感じています。なぜならこの杯は、裏切り、否定、残酷、冒涜、放棄という名を持っているからです。
 母様、私を支えてください。あなたの祈りをもって自分の上に神の霊を迎え、その霊によってこの世に『万民に期待されていたもの』を与えさせた、その時と同じように、いま、私がこの世に来た目的を果たすことができるように、その力をわが子の上に願ってください。母様、さようなら。私を祝福してください。御父に代わって! そして皆をゆるしてください。一緒にゆるしましょう。私たちを拷問にかけるすべての人々を、いまからゆるしましょう」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp168-170 あかし書房)


聖木曜日の昼

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (6) -

……いま、人々が再びイエズスを取り囲んでいる。ただ、さっきと違って、第一列に異邦人がおり、その後ろに他の人々がいる。
「それにしても、あなたが光栄を受けるときなら、あなたの言われるとおり、また私たちが知っているように、あなたが死ぬなんてありえない。そのようにして死ぬのは、光栄を受けることにならない。世界を、あなたの錫杖の下に集めるなんて、どうやってするのですか。そうする前にあなたが死んだら、どうやって勝利を得て民衆を集めるのですか?」
「私は、死をもって命を与え、死をもって人を築き、死をもって新しい民を造る。勝利は生贄で得られ、まことに言うが、地に落ちた小麦の粒が死ななければ実を結ばない。そのかわり、死ねば多くの実を結び、自分の命を愛する者はそれを失い、この世で、己の命を憎む人は永遠の命のためにそれを保ち、真理に仕えるために私についてくるすべての人に、永遠の命を与えるため、私は死ぬ義務がある。私に仕えたい人は、来ればよい。私の国では、特別な民のために席が限られてはいない。私に仕えたい人は、どんな人でも来て私に従えばよい。私のいるところに私の下僕もいるはずである。私に仕える人は、天地万物の主、唯一、真の神である私の父に嘉されるとはいえ、私の心はうろたえる。何を言おうか。父よ、この時から私を救いたまえと言おうか。いいや、私はそのために、この時に至るために来たのだから、『父よ、御名の光栄を現したまえ』と言おう」
 イエズスは腕を十字架の形に伸ばす。回廊の真っ白の大理石を背にして、緋色の十字架のように両手を広げ、顔を上げて祈りながら魂を父にささげる。ちょうどその時、雷鳴よりも強く、人間のどんな声にも似ず非物質的だが、すべての耳にとてもよく聞こえる一つの声が、四月の美しく晴れわたった空に満ちて、巨大なオルガンの響きよりももっとすごい和音が響きわたり、それと同じ調子でこの上なく美しく宣言する。
「私は、彼にすでに光栄を与えたが、さらに光栄を与えるであろう」
 人々は恐怖を覚えた。大地さえ震わせるほどのその強い声、他のどんな声とも違うその不思議な声、知られざる泉から来て、北から南、東から西へ、すべてを満たすその声はヘブライ人を恐れさせ、異邦人を驚かせる。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp157-158 あかし書房)


「神の小羊」の招き

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (5) -

「……これは生贄です。おお、イスラエル、恐れるな! 恐れるな! 過越祭の小羊はなくなるのではない! 地よ、恐れるな! 恐れるな。救い主を見なさい。救い主がそう望んだので、屠所にひかれる小羊のように、自分を殺す人々を呪うための口は開かなかった。死刑判決の後、救い主は十字架にあげられ、苦痛で食い尽くされ、手足は脱臼し、骨がはずれ、足と手は刺し貫かれる。しかし、多くの人を救うその苦しみの後、民々を所有することになります。なぜなら、世の救いのために己の命を死に渡して後よみがえり、この世を支配し、エゼキエルが見たまことの神殿から流れ出る水によって、汚れのない小羊の真っ白い服が染められました。ぶどう酒によって、天から下ったパンによって民々を養います。
 さあ、渇いている人々は皆、水に近寄りなさい。飢えている人々は食べなさい。疲れ果てている人々、病んでいる人々は、私のぶどう酒を飲みなさい! 金を持っていない人々、健康に恵まれぬ人々よ、いらっしゃい! 闇の中にいる人々! 死んでいる人々もいらっしゃい! 私は富と健康です。私は光と命です。道を探している人々は、いらっしゃい! 真理を探している人々は、いらっしゃい!
 私は命と真理です! この汚された神殿には、本当に聖なる生贄がないといっても、小羊を食べることができないのを心配しなくてもよい。私の民の最後の預言者が言ったように、世の罪を取り除きに来た『神の小羊』を皆、食べることができます。……」
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp153 あかし書房)


◆御受難の予告

 イエズス様は使徒と弟子たちに、自分は「神の小羊」であること、人々に捕らえられ十字架につけられて殺され、3日後によみがえり、天の御父のもとに昇ることをはっきりと告げます。御受難の予告はこれで3度目でした。しかしイエズス様をただ人間的にだけ愛していた使徒と弟子たちは「神であるイエズス様が殺されるはずがない。つい数日前、群集は歓呼をもってイエズス様を迎えたではないか……」と、イエズス様の御受難の予告を信じることができませんでした。この時、イエズス様に何が起ころうとしているのかを知り、イエズス様を「花嫁の愛」をもって支え、イエズス様と運命を共にしようとしていたのは、御母マリア様とマグダラのマリア、そして彼女の兄のラザロだけでした。

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (4) -

……「そう、敵たちがまことの神殿を滅ぼしても、私は三日でそれを建て直し、それからは人間が害を加えることのできないところへまで昇って、もう滅びることはありえない。
 神の国というのは、それはおまえたちと私を信じる人たちがいるところにはどこにでもあります。いまのところは散らばっており、このまま何世紀もつづくでしょうが、その後、天において一つのものとなり、永遠に完全なものとして存在します。神の国において新しい神殿が建てられます。それは、つまり神の国についての私の教えを納得し、その掟を守る人々のいるところです。
 私たちは数が少なくて貧しいから、どうやって建てられるのか不安なのですか。神が新しく住まわれる建物を建てるには、金も権勢も要らない。神の国は、おまえたちの中にあります。それは自分の中に神の国を持ち、恩寵である神、命である神、光である神、愛である神を持っているすべての人の集まりであって、地上では神の大きな国であり、新しいエルサレムであり、世界のありとあらゆるところまで広がり、何一つ欠点のない、陰のない、完全となって、天に永遠に生きるものです。
 この神殿と町とを、おまえたちがどうやって造れるかだって? おまえたちではなく、神、自らがこの新しいものを建てます。おまえたちは、神にその善意をささげるだけで十分です。善意とは、私の教えを『生きる』ことであり、皆の心の一致ということです。おまえたちは、小枝の先まで同じ樹液で養われている一つの木のように一致したものでなければならない。唯一のこの建物は、唯一の土台に建てられ、神秘的な統一によって一つとされます。
 私はおまえたちに祈ることを教えました。死ぬ前に、私もおまえたちのために祈ります。父の助けなしには、愛、真理、命である私の中にいることができないので、終わりを知らない神殿となるために、自分の中に神をもつように絶えず努めるように繰り返します。
 新しい建物っである私の教会で、あなたたちの心に神が本当に住むとき、神は『生きる石』であるおまえたちをもって、自分の教会をお建てになります」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp130-131 あかし書房)


キリスト者への訓戒

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (3) -

……話し始める前に、使徒たちをそば近くに呼んで言いきかせる。
「ここに来て、よく聞きなさい。おまえたちは、昨日、私がほのめかすだけにとどめておいたことを知りたがっていたが、それをいまから話します。皆にとって、とりわけ私の奉仕者、継続者となるおまえたちにとって重大な訓戒となるものだから、心してよく聞きなさい。……
……いま、私が『父と母とを私よりも愛している人は神の国にふさわしくない』と言うのは、おまえたちの心から親への愛を少なくさせるためではない。親には、いつでも尊敬と助けを示すべきで、『神殿の金です』と言って親を助けるのを拒むことは許されないし、『私の位のために』と言って親の世話を拒むことも許されていない。ただ私が言いたいのは、親に対して正しい愛と忍耐深い強い愛を持ち、親が罪を犯して苦しみのもとになったとしても、親を憎んではいけないということです。どんなことがあろうとも、おまえたちは、私の与える律法と家庭からくる利己心や虐げに打ち勝たねばならない。聖なるすべてのことにおいて、親に従って愛しなさい。だが親といえども、おまえたちの心に神が与えた召し出しへの裏切りを強いる場合は、他人に死を与えるのではなく、自分の方で死ぬ覚悟がなければならない。……
……私の弟子として、おまえたちは、いまからキリスト者という名で呼ばれると思いますが、キリスト者の基礎および土台は愛と一致し、服と持ち物の共有、互いの平等など、心の兄弟性です。皆は一人のため、一人は皆のために尽くしなさい。
 持てる者は、謙遜な心で与えるように。持たない者は、謙虚な気持ちで受入れ、兄弟たちに己が必要としていることを率直に話し、兄弟たちは深い愛をもってそれを聞きなさい。おまえたちの師は、しばしば飢えや寒さを耐え忍び、種々の困難や苦しみを味わい、神の御言葉であるのを、これを人間に謙遜に知らせたことを考えなさい。水一杯を与えるほどのあわれみを持っている人には、その報いが与えられるのを知りなさい。
 『与えることは、もらうよりも善いことである』 この言葉を思い、貧乏人は恥ずかしいと思わずに頼み、私自身が、その人よりも前にそうしたと考えて、頼む力を見つけるように。拒まれたときには、羊の群れの番犬でさえも与えられる糧が、人の子には拒まれたことを思い、いつでもゆるす力を身につけなさい。金持ちは、卑しい貨幣、サタンが憧れさせる憎々しい金 - 人の世の災いのもとは、十中八九これです - が、愛のために与えられるなら、天のための不滅の宝石に変わると思って、自分の富を寛大に与える力を見つけなさい。徳の服を身につけるようにしなさい。それは大きくて広いものですが、神のみに知られるように努めなさい。……
……おまえたちの中で最も偉大な者は、おまえたちの下僕でありますように。神の下僕たちの下僕であることは、己を蔑むことではなく、これこそ絶えず兄弟たちに愛と奉仕を行った柔和で謙遜な私に倣うことです。また、私は人間に奉仕することによって神をいやしめたのではない。なぜなら、真の王は他人を支配することよりも、自分の邪欲、中でも最も愚かな傲慢を支配することができます。
 忘れるな、己を蔑む人は高められ、高ぶる人は蔑まれます。主は創世の書で語った婦人(マリア様のこと)、イザヤがエンマヌエルの母と言っている処女は、この新しい時代のまことを、次のように歌いました。『主は権力者をその座から下ろし、低い人々を高めた』 そして神の知恵は、恩寵の母と上智の座であった婦人の口を通して語りました。……このことばは、自分の心にキリストを産み、こうしてキリストの国に来ようとする人々の基準となりました。傲慢な人々、淫蕩な人々、自分自身と自分の意志を拝む偶像崇拝者のためには、救い主であるキリスト、天の国はありはしない。……」
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp111-113 あかし書房)


やもめの2レプタ

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (2) -

……いろいろな庭と廊下から見ると、神殿の中にいることが分かる。……イエズスは、廊下のアーチを支えている大きな四角の柱にもたれて黙って眺めている。……イエズスはこれらの人から目を移し、今度は暗い栗毛の貧相な小柄な女の方を見る。この女は、恥ずかしそうに石段を上がると、口を開けた獅子の頭が並ぶ壁の方へ向かう。そこへ行く人は多いが、それまでイエズスはこういう人たちに注意を払ってはいなかった。いま、この女の歩みを追うイエズスの目はあわれみをたたえ、獅子の石の口に女が手を伸ばして何かを入れたとき、その目が何とも言えず、優しくなる。そして、この女が近くに来ると、イエズスの方から、「女よ、あなたに平和」とあいさつする。この女は、ふっと頭を上げるが、うろたえておろおろする。「あなたに平和」とイエズスが繰り返す。「さあ、行きなさい。いと高きものはあなたを祝福しています」 あわれな女はうっとりし、ようやくつぶやくようにあいさつをして行く。「あの女は、不幸の中にあっても幸福です」と、イエズスはようやく話し始める。 
「いま、あの女は幸福です。神の祝福が守っているから。友よ、そして、ここに集まっている皆もよく聞きなさい。あの女をごらんなさい。鳥かごで飼う一羽の雀の餌を買うにも足りない二厘の小銭を入れただけですが、それは、明け方この神殿が開かれてから、献金箱に寄付を入れただれよりも多くを入れています。ほとんどの金持ちが、獅子の口の中に、あの女を一年間養えるほどの金を入れました。また外から見ても分かるように、自己満足から、この聖なる町の貧しい人々全員を数日間養えるような大金を入れる人もいます。
 しかし、まことに言います、あの女より多く入れた人はいない。あの女の寄付は愛です。他のものはそうではない。あの女の寄付は寛大さです。他のものはそうではない。あの女の寄付は犠牲です。他のものはそうではない。きょう、あの女はもう何も持っていないのだから食べることもできない。あの女には富も、富をもたらす親戚もなく、夫も子供もいない。残されていたわずかの金も高利貸にまき上げられてしまって、自分の飢えを満たすパンを得るためには、働かなければならない。……
 第一の掟は、『すべての心と霊と知恵、またすべての力をもって神を愛す』べきなのです。だからこそ、神には、あり余るものではなく、私たちの血であるものをささげなければならない。神のために進んで自分が苦しむべきで、『他人を苦しめるべきではない』 多く与えること、すなわち財産を脱ぐことが辛いのは、人間の心は本来悪徳で、宝物はその心の中にあるからです。与えることは辛いことだからこそ、与えなければならない。まず正義のために。私たちの持っているものすべてが、神の慈愛によって与えられたものだからです。次に愛のために。愛する人を喜ばせたいがために何かを犠牲にすることは、愛のあかしだからです。……
……あのあわれな女は、まことに言うが、学者たちよりも律法を理解したので、だれよりも嘉され、祝福されたのです。貧しい中で、神に『すべて』をささげたからです。かえってあなたたちはあり余るものしかささげず、その上、その目的たるや周りの人々にもっと尊敬されたいがためのものです。
 このようにはっきりした物言いをするために、あなたたちが私を憎んでいるのは知っているが、この口が動かせるうちは、変わらず話し続けるつもりです。私に対するあなたたちの憎しみに、私がほめるあのあわれで貧しい女に対する軽蔑を合わせましょう。だが、この二つの石で、あなたたちの傲慢のために二重の台を築こうと考えてはならない。それは、あなたたちを砕く石臼となるに違いない。
 さあ、行きましょう。蝮どもが絡み合ってかみつき、自らの毒を広げるよう放置しておく方がよい。清らかで謙遜な心を抱いて神のまことの顔を知りたい人は、私についてきなさい」……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp104-108 あかし書房)


◆エルサレムでの最後の宣教

 イエズス様はエルサレムの神殿で、ご自分を殺そうとするファリサイ人、律法学者、衆議会議員たちに向かって、はっきりと彼らから天の御国は取り去られること、そうならないように今こそ悔い改めるように厳しくとがめます。イエズス様を殺す決心を固めていた彼らは、あざ笑い、イエズス様の最後の招きを拒否します。この時、ずっと以前から裏切り者だった12使徒の一人、イスカリオテのユダは彼らと結託して、イエズス様を彼らに売り渡す相談をしていました。ユダはこの世の高い地位と権力がほしかったのです。卑劣漢の彼は、イエズス様が人々が考えていたような「この世の王」ではないことに幻滅していたのです。

- 月曜日から木曜日にかけてのエピソード (1) -

……この律法学士がそばに近づき、……「先生、律法の掟の中で一番大事なものは何でしょうか?」……イエズスは答える。「『イスラエルよ聞け、われらの神なる主こそ唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神なる主を愛せよ』 これが第一の最大の掟です。第二の掟も似ており、『あだの仕返しをしてはならぬ。民の子らに恨みを抱かず、むしろ隣人を自分と同じように愛せよ。私は主である』ので、これに勝る掟はない。これには、すべての律法と預言者たちの言葉が含まれています」
「先生、あなたは知恵と真理とをもってお答えになりました。そのとおりです。神は唯一で、その他に神はない。すべての心をもって、すべての知恵をもって、すべての魂と力をもって神を愛し、また、隣人を自分と同じように愛することは、すべての燔祭(はんさい)と生贄に勝ります。『あなたはもういけにえを好まれず、供え物をしても、あなたはそれを喜ばれない。神へのいけにえとは痛悔する魂である』 私は、このダビドのことばを黙想するたびに、そのことを考えます」
「あなたは神の国から遠くない。というのは、神の気にいる燔祭がどんなものか分かったからです」
「最も完全な燔祭は何ですか」
 律法学士は小声で早口に、まるで秘密をささやくかのように尋ねる。イエズスはやや前かがみになり、愛に輝いて神の国の教えに心を開くこの人の心に、真珠のことばをささやく。
「最も完全な燔祭は、私たちを虐げる人々を自分のことのように愛し、遺恨を持たないことです。これを行う人は平和を保ちます。『だが、小さな人々は地をつぎ、豊かな平和を味わう』 私はまことに言うが、敵を愛することを知る人は完徳に達し、神を所有します」
 律法学士はイエズスに丁寧にあいさつをして、自分の集団に戻ったところ、低い声でイエズスをほめたことを聞きとがめられる。……
(マリア・ワルトルタ著「イエズスの受難」pp101-103 あかし書房)


◆エルサレム凱旋(「枝の主日」)

- 聖週間のはじまり - エルサレム凱旋、最後の晩餐、ご受難、ご死去、そしてご復活の週。

 約3年にわたる福音宣教の後、イエズス様は「神の小羊」として、ご自身を全人類の罪の贖いの生贄としてささげるために、これから「過ぎこしの祭り」が行われようとしているイスラエルの首都エルサレムに入城されます。3年間の宣教で、その罪を悔い改めるように厳しくとがめられていたイスラエルの偉い人々は、神殿をはじめイスラエルの全会堂からイエズス様を追放し、指名手配する布告を出しており、ひそかにイエズス様を捕らえ殺す計画を練っていました。反面、病気を癒してもらい、まもなく来る天の御国のことを知らされ、大いに慰められていた素朴な民衆は、イエズス様を預言され期待されていたメシア、救い主として大歓迎して迎え入れます。子ろばに乗ってエルサレムに凱旋されるイエズス様を、群集はシュロの葉を手に持ち、「ホザンナ」の大歓声をもって讃えます。誰が、この5日後、この同じ群集が狂ったように「十字架につけろ!」と叫ぶことを予想できたでしょうか? イエズス様は神として全てをご存知でしたが、まったく柔和な「神の小羊」として、彼ら全てのためにご自身を与えようとなさいます。

「エルサレムに上る道で、イエズスは先頭に立って行かれた。弟子たちは驚き、人々は恐れていた。するとイエズスはまた12人を呼び寄せ、ご自分の身の上に起こることを話し始められた。『我々はエルサレムに上る。人の子は司祭長や律法学士たちにわたされる。彼らは人の子に死を宣告し、異邦人にわたす。そして彼らからあざけられ、つばをかけられ、むち打たれ、殺され、三日目によみがえる』……」
(マルコによる福音書 第10章32~34節)

「彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアのあたりに来た。その時イエズスは二人の弟子を村に送ってこう言われた。『向こうの村に行き、そこに入ったら、まだ人の乗ったことのない子ろばがつながれているのがすぐ見つかるから、それを解いて引いてくるように。誰かが何をするのかと聞いたら、「主に入り用だ。すぐ返すから」と答えよ』 弟子たちはそこへ行った。すると道のかたわらの戸口の外に子ろばがつながれているのを見つけたのでそれを解くと、そこに立っていたある人々が『子ろばを解いてどうするのか』と尋ねた。弟子たちはイエズスに言われたとおりに言った。すると彼らは解くのを許した。弟子たちはイエズスのもとに子ろばを引いてきて、自分の上着をその上に敷いた。イエズスはそれに乗られた。
 人々は自分達たちの上着を敷き、あるいは木の枝を野原から切ってきて道に敷いた。そして前を行く人々も、後に従う人々も、『ホザンナ、賛美されよ、主の名によって来られる者! 祝されんことを! いまや来る、われらの父ダビドの国。いと高きところにホザンナ!』と叫んだ。イエズスはエルサレムに来て神殿に入り、まわりを見回されると、もう夕暮れになっていたので12人を連れてベタニアに向かわれた。」
(マルコによる福音書 第11章1~11節)


天皇皇后両陛下への直訴状

 私たち日本の聖シャーベル修道会のメンバーは、オーストラリアで不正に投獄されているウィリアム・カム氏(リトル・ペブル)の早期釈放のお力添えを願うため、天皇皇后両陛下をはじめ皇室の方々へ昨年12月から様々なルートでアプローチしてきました。今回は3月26日から3月29日にかけて、神奈川県の葉山御用邸でご静養されている天皇皇后両陛下に直接お会いしてこのことをお伝えしようと努力しましたが、かないませんでした。そこで、今回、両陛下にお渡ししようとした「直訴状」の一部をホームページ上で公開することにしました。 (2006年4月1日投稿)

  天皇皇后両陛下への直訴状(2006年3月17日付)の一部


天皇皇后両陛下への直訴状

これらの「直訴状」はコピーしたものを別途、3月27日夕方に逗子郵便局より速達にて「葉山御用邸」宛てに発送しております。(2006年4月3日追加更新)

  マリー・マドレーヌに与えられたメッセージ- 2006年4月1日

   
「直訴状の表紙」
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「復活された神の子のジャン・マリー神父の直訴状」(jpeg 93KB)
   
「コルベ・マリー阿部哲朗の直訴状」(jpeg 139KB)
   
「ミシェル・マリー・フランソワ奥田力の直訴状」(jpeg 76KB)
   
「ロンジン・マリー馬場勝吉の直訴状」(jpeg 120KB)
   
「マリー・マドレーヌ杉浦律子の直訴状」(jpeg 143KB)
   
「マリー・レベッカの直訴状」(jpeg 102KB)


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