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ブラザー・サン・シスター・ムーン

ジャン・マリー神父と一緒に「ブラザー・サン・シスター・ムーン」を見ますた。フランシスコ会の創立者 アシジの聖フランシスコを描いた映画です。最初から最後まで涙、涙(感動のですよ)の物語でした。


聖ベルナデッタ

今日はマリー・マドレーヌの誕生日。みんなで聖ベルナデッタの映画(DVD : The Song of Bernadette)を見ますた。
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これは本物の聖ベルナデッタ。2005年4月、ミッシェル・マリー・フランソワ撮影


リビング・ストーンズ(生ける石たち)

 イエズスは目をあげて、金持ちが神殿の献金箱に寄付を入れるのを見ておられたが、ある貧しいやもめが2レプタ(数十円に相当?)を入れるのを見て、「まことに私は言う。あの貧しいやもめは誰よりも多くのものを入れた。他の者は皆、あり余っているものの中から入れたが、あの女は乏しい中から、暮らしの費用すべてを入れたからである」と言われた。
 ある人々が見事な石とささげ物で飾られた神殿について話したとき、イエズスは「あなたたちの眺めているこれらは、石の上に一つの石さえ残さず崩れ去る日が来るだろう」と言われた。
(ルカによる福音書 第21章1~6節)

 キリストの神秘体である「教会」は、生ける石たち(リビング・ストーンズ)である、キリスト信者たちによって形成されています。イエズス様は福音の別の場所で、「私の名において2人3人が集まるところに、私もいるのである」とおっしゃっています。キリストの「教会」とは、皆さんがよく勘違いしている、立派な建物や立派な祭壇etc……のことではありません。戦国時代の武将が「人は城、人は石垣」と言ったのとよく似てますね。
 さて、ここで問題になってくるのは、生ける石たち(リビング・ストーンズ)の「意向の純粋さ」です。この堕落しきった現代の私たちは、どんなに外見が立派であろうとも、「聖人」いや「義人」とさえ言える人は誰一人いません! 私たちはどうしようもない「罪人たち」の集団で、意識していようといまいと、神のみ前に毎日数え切れない罪をおかしているのが現実の姿なのです!
 では、私たちどうしようもない「罪人たち」は、どこで勝負しましょうか? それが神にささげる「意向の純粋さ」なのです。上記の福音は、当時の堕落しきったユダヤ教の人々に向けて、イエズス様がおっしゃった御言葉ですが、とても残念なことに、これはまったく今の「聖にして母なる公教会」にあてはまります。見てくれは壮大で立派ですが、中身は腐りきって「石の上に一つの石さえ残さず崩れ去る日」がいつ来てもおかしくありません。
 その時、まことの神への信仰に生きようとする、貧しく、みじめで、どうしようもない「罪人」である私たちはどうしましょうか? 2千年前の初代教会の時代も同じでした。立派な建物はありませんし、立派な祭壇もありませんでした。大多数が貧しく、みじめで、どうしようもない「罪人たち」の小さな集団から始まったのです。しかしながら、それはすでに神様の目から見て、立派な教会だったのです。初代教会の生ける石たち(リビング・ストーンズ)、つまり信者の一人一人は「純粋な輝く黄金のような信仰・希望・愛」をもっていました。
 幸いにしてマリア様は、現代のぼろぼろに崩壊した私たち日本人に、大きなことを要求してはおられません。 「マリア様、どうぞ罪深い私のために祈ってください」と、そのただ一言だけを求めていらっしゃるのです。その一言を、あなたの全身全霊をこめてささげてください! その「意向の純粋さ」で勝負しましょう! そうすればマリア様はあなたをイエズス様のもとへ、そして天国の永遠の幸福へと導いてくださいますから!


杉浦らっこ

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おりがよくても、悪くても……

 私は、神の御前で、また生きている人々と死んだ人々をさばかれるキリスト・イエズスの御前で、その現れと御国のために、あなたに切に願う。みことばを宣教せよ! よい折があろうとなかろうと、繰り返し論じ、反駁し、とがめ、すべての知識と寛容をもって勧めよ! 人々がもはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、作り話に耳を傾ける時が来るであろう。しかしあなたはすべてを警戒し、悪を忍び、伝道者の業を行い、あなたの務めを果たせ!
(テモテへの第二の手紙 第4章1~5節)

 目の前で滅びゆく、兄弟姉妹、同胞たちへの本当の愛があるなら、こうせずにはいられないでしょう! 


詩篇 第51篇

神よ、慈悲によって私をあわれみ、深い憐憫によって、私のとがを消したまえ。
たえず私の不義を洗い、私の罪を清めたまえ。
私は自分のとがを認める、私の罪はつねに私の前にある。
あなたに向かって、私は罪を犯し、御目の前に悪事を行った。
あなたが宣告されるとき、その宣告は正しく、
さばかれるとき、そのさばきはあやまりがない。
私は不義の中に生まれ、母は罪のうちに私を身ごもった。
あなたは心の誠実を喜ばれる、
知恵の深さを私に教えたまえ。

ヒソプをもって清めれば、私は清くなり、
洗えば雪よりも白くなる。
私に喜悦と歓喜を知らせたまえ。
そうすれば、あなたに砕かれた骨は喜び踊るだろう。
み顔をおおって私の罪を見ず、私のとがをすべて消し、
清い心をつくり、新しい確かな霊を与えたまえ。
み前から私を退けず、聖なる霊を私から奪わず、
救いの喜びを返し、寛仁な霊をもって私を支えたまえ。
私は悪人たちに、あなたの道を教えよう。
神よ、救いの神よ、血のできごとから私を解放したまえ。
そうすれば、私の舌はあなたの正義を告げよう。
主よ、私のくちびるを開きたまえ。
そうすれば、私の口はあなたの誉れを語る。
あなたはもういけにえを好まれず、
供え物をしても、あなたはそれを喜ばない。
神へのいけにえとは痛悔する魂である。
ああ神よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない。

慈愛のみ心によって、シオンにあわれみを下し、
エルサレムの城壁を建て直したまえ。
そのとき、あなたにささげられるいけにえ、
供え物とささげ物は受け入れられ、
そして、私はあなたの祭壇に小牛をささげよう。


種まく人のたとえ(2)

 修道生活はちょうどこの「石地を耕し、茨を刈り取り、多くの実りを結ぶ」ように、神様の恩寵のもとに一生涯をかけて自己を改善していく生活です。誰一人、最初から完全である人など一人もいません。必ず何がしかの弱点・欠点をもっているものです。これをその人の「主要悪徳」と言いますが、これを神様の恩寵のもとに一生涯かけてためなおしていくのです。
 皆さんは、人間にとって何が一番つらいことか知っていますか? それは皆さんが想像するような、断食、様々な苦業ではありません。それは単なる「手段」でしかありませんし、そんなことなら、知力・体力のある人はじきに慣れてしまいます。人間にとって一番つらいことは、自分の好み、自分が一番大切に思っていること、この世への執着、すなわち自我を放棄して、自分の一番苦手なことに「愛」をもってチャレンジすることです。その最高峰は、イエズス様が十字架上で模範を示されたように、皆さんをいじめ迫害する人々を愛し、皆さんの敵たちのために自分の命をささげることです。この愛の最高峰、「完徳」を目指すことが修道生活の本質です。ちょっとでもチャレンジしてもらえばすぐにわかることですが、「汝の敵を愛せよ」は人間の力でできることではありません。神様の助けがあってはじめてできることです。そのためには自分自身の中にある「石地を耕し、茨を刈り取り、多くの実りを結ぶ」ようにしなければなりません。
 さて、ここまでは、昔ながらの修道生活のセオリーですが、現代の日本においては、この修道者としてあたりまえの道に進む前に、現代人は人間としての「自然徳」の土台がガタガタに破壊されてしまっているという現実に向き合わなければなりません。現代ほど人間が堕落した時代はありません。何年か前、NHK教育テレビで「なぜ、人を殺してはいけないか?」というテーマで若者たちを集めてディスカッションするという番組がありました。こんな企画で番組をつくること自体が馬鹿げたことです。「殺人は純然たる大罪である!」と一喝すればすむことです。こんな単純なことがわからなくなるほど、皆さんは堕落しているのです。 これは若者たちだけに限りません。おじいちゃん、お父さん、子供たちの3世代にわたって狂っているのです。 超個人主義で、自分自身を「神」とする現代人たち。特に日本は超ストレス社会で、皆が大なり小なり心の傷をおっています。
 日本で最初の聖シャーベル修道会の共同体を創立するにあたり、私たちは途方にくれてしまいました。昔ながらの修道会の養成方法では、ほとんどの人が修練期で脱落し、誓願をたてれた人も誰一人「完徳」に達することはできないでしょう。人間としての「自然徳」の土台自体がガタガタに破壊され、心は大いに傷ついているのですから。しかし、これが日本人の現状で、ここをスタートラインにしなければなりません。新しい奉献生活の様式である聖シャーベル修道会は、既存の修道会のような選び抜かれた精鋭集団ではなく、老若男女、お年寄りから赤ちゃんにいたるまで、すべての人々を招いているのですから。
 そこで、私たちは「温泉リハビリ共同体」という路線を打ち出しました。まずはリハビリ、信仰以前のケアをすること。 腹をわった話し合い通し、「お前のためなら死んでやる!」と言えるほどまでの互いの友情を育てること。その土台の上に、兄弟姉妹たちの真の友情のうちに、「完徳」を目指すことです。共同体では最も弱い人に生活のパターンをあわせ、信心業は最低限におさえ、誰もストレスを感じないように定まったスケジュールをつくらず、臨機応変に対応すること、などです。これなら見た目はハチャメチャであろうとも、どんなに弱い人、お年寄りでも赤ちゃんでも、本人が心から望むなら、愛の最高峰、「汝の敵を愛す」レベルまで到達することができます。
 約8年前、私は元「ひきこもり」の弱兵、ジャン・マリー神父は「ミトコンドリア脳筋症」という生まれつきの難病ということで、日本に一つくらいは「温泉リハビリ共同体」という、既存の修道者が見たら、常識やぶりのハチャメチャな共同体があってもいいだろうということで始めました。そしたら、未熟児網膜症のマリー・マドレーヌ、老兵(?)のロンジン・マリー、フランソワ・マリー(わぁ~ごめん! 中年に訂正しようか?)が合流して、日本で最初の聖シャーベル修道会の共同体が立ち上がったというわけです。そして、この障害者と健常者の混成凸凹チームで、私たち自身も含めて皆さんに皆さんの「石地を耕し、茨を刈り取り、多くの実りを結ぶ」ように、「荒野で叫んで」いるわけです。
 私たちは、これは特例中の特例だと思っていたら、マリア様はこれから次々にできる共同体は、名古屋・秋田の「温泉リハビリ共同体(温泉はまだありませんけど……)」を模範として建設していってほしいとおっしゃってくださいました。老兵・病兵・弱兵、なおかつ貧乏人たちが日本で最初の聖シャーベル修道会の共同体を立ち上げたのは、偶然ではなかったのですね。
 私たちは、私たちの弱さ、悪さのゆえに私たち自身を誇ることはできません。これで「日本の大改心」という大奇跡が実現するなら、それは私たちではなく、神様の偉大な御業であるということができます。このボロボロの道具を用いて、偉大な御業をなさる神の御名は賛美されよ! 


種まく人のたとえ

……イエズスはたとえでいろいろのことを話された。
「種まく人が種をまきに出た。まくとき、ある種は道端に落ちたので、鳥が来て種をついばんだ。ほかの種は土のうすい石地に落ち、土が浅いのですぐ生え出たけれど、日が昇ると焼け、根がないから枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨が生長したのでふさがれてしまった。ほかの種はよい地に落ち、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは二十倍の実を結んだ。耳のある者は聞け」
 弟子たちが近寄って、「なぜこの人たちにたとえで話されるのですか」と聞くと、イエズスは答えられた。
「あなたたちは天の国の奥義を知る恵みを受けたが、彼らはそれを受けていない。持っている者は与えられてますます豊かになるが、持たない者は持っているものまで取られてしまう。だから彼らにはたとえで話す。彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、理解しようとせぬからである。こうして彼らにイザヤの預言は実現した。
 『あなたたちは聞いても悟らず、見つめても認めようとはせぬ。この民の心はにぶくなった。耳をふさぎ、目を閉じた。目で見ず、耳で聞かぬように、心で悟らぬように、改心して私にいやされぬように』
 だがあなたたちの目は見えるから幸せであり、耳は聞こえるから幸せである。まことに私は言う。多くの預言者と義人は、あなたたちの見ていることを見たいと強く望んだが見られず、あなたたちの聞くところを聞きたいと思ったが聞けなかった。
 さて、それでは、種まく人のたとえを聞け。天の国の言葉を聞いて悟らぬときには、悪者が来てその人の心にまかれたものを奪っていく。道端にまかれたとはこういう人のことである。石地にまかれたのは、主の言葉を聞いてすぐ喜び受けるが、自分に根がなく根気がないから、言葉のために苦難と迫害が起こるとすぐ負けてしまう人のことである。茨の中にまかれたのは、言葉を聞いても世俗の気遣いと富の誘惑に言葉をふさがれて、実らぬ人のことである。よい土地にまかれたのは、ことばを聞いて悟り、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍もの実を結ぶ人のことである」
(マテオによる福音書 第13章3~23節)

 十数年前、プロテスタントの洗礼を受ける前後、この御言葉を読んだ私は、今思うと大胆にも、「では、石地を耕し、茨を刈り取り、多くの人が多くの実をむすびますように!」と証しに書いた(言った?)のを覚えています。


聖パウロの「愛の賛歌」

 たとえ私が人間と天使の言葉を話しても、愛がなければ鳴る青銅と響きわたるどらに等しい。たとえ私が預言の賜物をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰をもっていても、愛がなければ無に等しい。たとえ私がすべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、愛がなければ益するところはない。愛は寛容で、愛は、慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ。愛はいつまでも絶えることはない。
 だが預言ならばすたれ、異語ならばやみ、知識ならば滅びる。私たちの知識は不完全であり、私たちの預言も不完全である。完全なものが来るとき不完全なものは滅びる。私が子供のころは、子供のように話し、子供のように考え、子供のように論じたが、大人になってからは子供らしいことを捨てた。今、私たちは鏡をみるようにぼんやりと見ている。だがその時には顔と顔を合わせて見るであろう。今私は不完全に知っているが、そのときには私が知られているとおりに知るであろう。
 今あるものは信仰と希望と愛の三つである。そのうちでもっとも偉大なものは愛である。
(コリント人への第一の手紙 第13章)


黒の祭服の祝別

 復活された神の子のジャン・マリー神父は、毎週火曜日、煉獄の霊魂たちのために「死者ミサ」をたててきました。また毎回のミサの前に、リンボウ(古聖所)の無垢な霊魂たちに洗礼を授けてきました。1月23日に下記のメッセージが与えられてからは、毎日の第2ミサを今日死んだ霊魂たちのための「死者ミサ」「お葬式のミサ」にするようにしました。マリア様のおっしゃるように、今やだれもリンボウと煉獄の霊魂たちのために祈らないからです。
 そして、昨日、「お葬式のミサ」のための黒い祭服が完成し、祝別式を行いました。ちなみに、修道服・祭服etcの製作は女子修道院の「事業」です。
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黒の祭服の祝別を行うジャン・マリー神父

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黒の祭服の着付けを手伝う、製作者のマリー・レベッカ

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「お葬式のミサ」ための黒い祭服姿のジャン・マリー神父


リンボウと煉獄の霊魂たちの取次ぎ(2)

 「煉獄の聖なる霊魂たち」とは、死の最後の瞬間、イエズス・キリストをまことの救い主として信じ(その多くは『望みの洗礼』によるものですが)、罪をゆるされ永遠の救いを得たけれども、犯した罪の償いがまだ残っており、煉獄の厳しい清めの火の中で彼らの償いを果たしている霊魂たちのことです。実は、私たち日本人のご先祖様たちの多くの霊魂たちが、カトリック信者ではなかったけれども、神様のあわれみによって、『望みの洗礼』によって煉獄にいるのです。
 「リンボウ(古聖所)の無垢な霊魂たち」とは、堕胎された赤ちゃんたち、流産した赤ちゃんたち、理性が確立する前に罪なくして亡くなった幼子たち、病気・障害etcのせいで理性なく無垢なまま一生を終えた人々が、ただ「原罪」のゆえに天国へ入れないでいる霊魂たちのことです。 「リンボウ(古聖所)」は、イエズス・キリストが十字架による贖いを完成して天国の門を開くまでは、旧約聖書の時代の義人の太祖たちがいた場所です。そしてイエズス様の十字架の贖いの後、待ち焦がれていた旧約の時代の義人の霊魂たちはイエズス様とともに天国に入りました。今は新約の時代の上記の無垢な霊魂たちが、天国へ入れる日を熱烈に待ち焦がれている場所です。自然的な幸福にあふれた場所ですが、ただ神様と直接顔と顔をあわせて永遠の幸福を享受できないことが彼らの悲しみです。堕胎天国であり、性風俗が乱れきった日本では毎年、何百万、何千万単位でリンボウの無垢な霊魂たちの数を増やしているのです。
 煉獄の聖なる霊魂たちも、古聖所の無垢な霊魂たちも、自分自身では天国へ入ることはできません。この世にいる私たちの祈り・犠牲、特に日々ささげられるミサにおけるイエズス様のまことの生贄の功徳によって、天国に入ることができるのです。そのため、下記のメッセージで、マリア様はリンボウと煉獄の霊魂たちがすみやかに天国に入ることができるように、彼らのために祈り、犠牲をささげるように嘆願なさっているのです。
 煉獄の聖なる霊魂たちも、古聖所の無垢な霊魂たちも、自分自身のために功徳を積むことはもうできませんが、この世にいる私たちのために神様に祈り、恵みを取り次ぐことができるのです。特に彼らは自分の血縁の者たちの永遠の救いのために日々熱烈に祈り、取り次いでくださっています。
 「諸聖人の通功」の中には、煉獄の聖なる霊魂たち、古聖所の無垢な霊魂たちも含まれているのです。そして彼らが天国に近づけば近づくほど、その取次ぎの力は大きくなります。地上の「戦う教会」、リンボウと煉獄の「清めの教会」、天国の「凱旋の教会」は、目には見えませんが、地獄に対して一致して戦う「連合軍」なのです。


リンボウと煉獄の霊魂たちの取次ぎ

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2006年1月23日(月曜日)(PM22:30~22:46)
マリー・マドレーヌに与えられた聖母マリア様のメッセージ
(名古屋共同体にて)
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あなた方に伝えます。
愛する子ら、聖母が望むことをこれからも行なってください。
多くの子らがリンボウ(古聖所)と煉獄の存在に関して、疑いを抱いています。
あなた方はこのことを覚えてください。
リンボウと煉獄の霊魂に助けを願ってください。
彼らは、特に煉獄の霊魂の苦しみを知らないでいます。
彼らのためにとりなす信者がほんとうにごく限られた人たちになりました。
あなた方は、煉獄の霊魂のために祈りを捧げ続けてください。
あまりにも多くの霊魂が煉獄にいるからです。
だれもとりなす人がいないので、彼らは日夜清めのために苦しまねばなりません。
あなた方は今しているように、全世界、全リンボウ、全煉獄のために犠牲を捧げてください。
天はこのことを願っています。
煉獄の霊魂のために祈ってください。
あなた方に祝福を与えます。
父と、子と、聖霊との御名によりて。アーメン。


詩篇 第23篇

主は私の牧者、私には乏しいものがない。
緑の牧場に主は私を横たえ、物静かなみぎわに引き連れて行く。
主は私の魂を強め、その御名のために正義の小道に立たせられた。
やみの谷間を通っても私は悪を恐れない。
あなたが私とともにおられるのだから。
あなたの棒と杖は私を慰める。
あなたは敵の前で、私に食事を調え、油を注いで私の頭を匂わせ、
そして私の杯はあふれる。
ああ、慈しみと情けが、生涯の日々、私とともにある。
日の続くかぎり、私の住まいは主の家である。


犬っ子まつり、行ってきますた!

湯沢の「犬っ子まつり」、行ってきますた! いつもは他の地域から雪を運んで作るのだそうですが、今年は例年よりも雪が多く、自前の雪で作れそうです。いろんな「犬っこ」がいて、中には猫みたいな「犬っこ」もいました。「犬っ子まつり」は明日までやってます。
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マリー・マドレーヌ、「犬っ子ストラップ」買ってもらいました


誰が一番働いているのか?

 1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まる直前、コルベ神父様の事業はポーランドで大発展しており、ニェポカラノフの修道院は700人のブラザーをかかえる世界最大級の修道院になっていました。そこで発行される「無原罪の聖母の騎士」誌は、ポーランドの各大新聞の発行部数を上回るほどでした。
 ある日、この大発展に驚いた見学者がコルベ神父さまに、「この修道院で一番働いているところはどこですか?」と尋ねました。コルベ神父様は微笑んで、兄弟たちが病気で寝ている寝室に案内して、「ここがこの修道院で一番働いているところです」とおっしゃいました。
 マリア様のために働きたくとも、病気や老齢のために働けず、その苦しみだけをおささげしている「いけにえ」の霊魂たち。彼らこそ、イエズスのまことの「いけにえ」と一致して、神様からの「恩寵」を、兄弟たちのために勝ち取っていると言うのです。神様の恵みの世界において、彼らは何もできないという苦しみをおささげして、活動する兄弟たちに必要な神様の恵みをいただく、「エンジン」「心臓」の役割を果たしていると言うのです。
 世間一般において病人、老人、障害者は「お荷物」「ごくつぶし」としてあしらわれています。しかし、神様の御目において、彼らは人一倍いとおしい、愛されている存在です。聖シャーベル修道会の「共同体」は、人間の能力・知識・権威によってではなく、神様の御前につまれる目に見えない「功徳」によって建てられます。
 日本において最初に形成された聖シャーベル修道会の「共同体」が、老兵・病兵・弱兵、なおかつ貧乏人たちによって立ち上げられたのは、決して偶然ではありません。


「かまきり」さんは生きていたあぁぁぁ~!

 今年、2回目の雪下ろし。除雪した雪で、一階の2/3くらいは埋まってしまいました。し、しかし、「かまきり」さんは生きていたあぁぁぁ~! 地面から2mくらいのところに、小さい卵のかたまりが二つ! 
 思うに、気象予報士のお姉さんたちの長期予報を信じた「かまきり」さんたちは、雪に埋もれてしまったようです。(生き残ったのを「ノアのかまきり」さんって呼ぼうかな……)
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雪で一階部分は埋まりますた。

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見にくいけど、一階部分の写真の真ん中あたり、すだれの上の方に小さいかまきりの卵が……


「リトル・ペブル 最後の教皇 第一巻」出版

 聖シャーベル修道会の創立者にして歴史上「最後の教皇」となるリトル・ペブル- ウィリアム・カムとは、いったいどんな人物なのか? そこには彼自身の手で、皆さんの知らない彼の本当の姿が赤裸々に描き出されています。原題のサブタイトルには「つまずきの人- ペトルス・ロマーヌス -罪人か聖人か?」とあります。ちょうどイエズスご自身がそうであられたように……。皆さんはこの著書を通して、リトル・ペブルの真実を知るでしょう。そして皆さん自身が歴史の目撃者となったことに戦慄をおぼえることでしょう。

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ウィリアム・カム(リトル・ペブル)著 
「リトル・ペブル 最後の教皇 第一巻
 - ウィリアム・カムの証言と神秘的生活」
A5判 337頁 5000円(送料別)



【 第一巻の目次 】
 永遠の御父への献辞
 著者の前書
 リトル・ペブルに関する聖書の言及と預言
 マルコム・ブロサード神父による序論
 第一章 若い頃
 第二章 最初の神秘的経験
 第三章 私の初恋とそのトラウマ的な結果
 第四章 リトル・ペブルとしての私のミッションが始まる
 第五章 迫害が始まる
 第六章 最初の世界旅行 - 1986年
 第七章 教会が意見を述べる
 第八章 貧しい人々への援助
 第九章 預言
 第十章 天からの対話。賜物と苦しみ
 第十一章 私の生活における典型的な一日
 第十二章 ナウラで見られた奇跡
 第十三章 さらなる世界旅行
 第十四章 ポーランドへの旅。1988年。裏切り
 付録
 謝辞
 日本語版の謝辞



【 日本語版の謝辞 】

 私たちはリトル・ペブルさんの本、「THE LITTLE PEBBLE - THE LAST POPE」日本語版について、2001年11月17日に翻訳と出版の権利をリトル・ペブルさんからいただきました。
契約については、ここをクリックしてください) どんな天からのメッセージにも版権はありませんが、リトル・ペブルさん自身の著述に関しては版権があります。この日本語版「リトル・ペブル 最後の教皇 第一巻」の著作権は「箱舟の聖母社」にあります。この重要な本を発行するにあたり、寛大なご寄付をくださった皆様、また翻訳のために膨大な時間と労力をささげてくださったU氏、N氏に、あつく感謝いたします。
2006年1月
聖シャーベル修道会 箱舟の聖母社
Kolbe-Marie 阿部哲朗

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原題: "Petrus Romanus" - The Last Pope - Volume 1
    The Manuscript is Copyright (c) 1999 by William Kamm.
William Kamm, P.O.Box 815, Nowra, N.S.W. Australia
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「リトル・ペブル 最後の教皇 第一巻」日本語版
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2006年1月 第1刷発行
著 者 ウィリアム・カム
編 集 Kolbe-Marie 阿部哲朗
発行者 Rongin-Marie馬場勝吉
発行所 箱舟の聖母社
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(c) 2006 in Japan by Hakobune-no-Seibo-Sha
Printed in Japan
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◆「リトル・ペブル 最後の教皇 第一巻」日本語版は、一冊5000円(送料別、全国一律、一冊500円)です。お申し込みは下記まで、現金書留か郵便振替にてお願いします。ご送金はおつりのないようにお願いします。ご入金を確認後、発送いたします。

 〒467-0014
 名古屋市瑞穂区白羽根町2-33-3
箱舟の聖母社

 電話・FAX: 052-851-8584
 Eメール:rongin-marie@martyrs.jpn.ph
    charbeljapan@nifty.com
 郵便振替 00880-4-204678


雪男 ?

 何とかやっと秋田にたどりつくことができました。前回の旅から、行く先々で雪が降り、立ち往生の連続でした。ミッシェル・マリー・フランソワは「晴れ男」とのことですが、どうも私たちの一行の中に「雪男」か「雪女」がいるみたい……。
 まだインフルエンザも残っていて、徐々に運転再開といったところです……。


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