マリア・アントニアに与えられた天からのメッセージ 2017年6月30日

2017年6月30日  マリアママの御出現 ジャン・マリー神父「イエズスの御水に対する礼拝について、何か教えてちょ。それについて、御受難のマリア・アントニアがどう用いられるの?ファウスティナとのつながりは?神の御いつくしみの信心はすばらしいんだけど、カトリック内にのみにしか届いてないのでは?」

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マリアママ「御子イエズスご自身のものであるわき腹から流れ出た御血と御水は、イエズスそのものですから、大変なめぐみとみいつに直結しています。『御聖体と同じく、イエズスそのもので、神そのものである』と、関わりを持つ必要がある人には、自然と理解する、悟ることが出来るめぐみが与えられます。

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 神学者たちの難しい言葉では、わかることが出来ないことでも、私的けいじを受け入れる人は、神のみわざであることが教えられます。人間的に説明が出来なくても、罪の汚れを洗い流してくれることや、愛そのものであるイエズスの許したいという、いつくしみの深さが計り知れないことを、心の中、霊魂に直接、伝えられます。知ってしまうと、気絶をしてしまうことでしょう。  マリア・アントニアには、御水については、絵でも描いたことがあるように、水の色とされる、水色のような青い色で見せられました。御聖体から水色の光となって出たものは、描いたものを指していますが、御体からほとばしり出た御水と同じことを表したものです。うまく説明が出来ないままでも霊魂には理解させられます。  体液は、普通の水とは違って、とても神秘的なものです。けいやくのひつの上に、今も新鮮なまま残されている御血のように、その中に少し含まれています。そして生き続けています。  マリア・アントニアには、最低最悪な霊魂に対しての神のやさしさをおしえられることでしょう。ファウスティナと共通して、やさしさを知っていきます。そしてマルガリータ・マリア・アラコックのように、みこころを、炎の熱のように、心に感じることも体験していきます。イエズスのご受難を体感します。わが息子が感じているように、広まることを押さえつけられています。あらゆる宗教にねじまげられて、間違って他のものとなってしまっています。カトリック内でも否定されています。広めたくないと思っています。」

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マリア・アントニアに与えられた天からのメッセージ 2017年6月4日

聞こえる大奇跡
 
リトル・マグダレーナの証言
 
2017年6月4日(日曜日)
 
聖霊降臨の日、説教中にマリアママの涙の音を聞いた。始まって5分、涙の音がした。私「あっ!」と思った。昨日、聞いた涙の音とはちがっていた。「涙なのかなあ?」と思った。コルベ神父様のことを語るところと、ジャン・マリーが神学校で体験したところ、それとワルトルタのことを話したところで、はげしく涙の音がした。
 
聖霊に対する悲しみを、マリアママが涙であらわしたと思う。今日は、ジャン・マリーの力の入った説教に圧倒された。どなるところでも、涙の音を聞いた。ジャン・マリーの説教を、みんなにも聞いてもらいたいよと思った。
 
涙の音は、1分ほど続いて、しばらくなかったということが、今日は目立った。流れる音も連続していた。38分の説教中、最後まで涙の音が聞こえた。涙の音は録音された。
 
マリア・アントニアが確認した。
 
マリアママ「今回の涙の理由は、イエズスが天に昇られたあとに、聖霊が下ってくださったのにもかかわらず、人々の、すぐにくずれてしまう信仰に対して、涙を流しました。
 
今回は、流れる連続した音は、イエズスのわき腹から流れた血と水が、再び流れました。人々に対する絶対的なあわれみを表しています。」

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マリア・アントニアに与えられた天からのメッセージ 2017年6月3日 PM10:52

2017年6月3日 PM10:52
ジャン・マリー「マリアママ、説明ちょー。告解後、リトル・マグダレーナが聖霊のことを考えていて、『マリアママと一致するんだよね』と言っていた。パチャ、パチャ、パチャ・・、7回くらい連続する(5秒くらい)。そのセットが3~4回、音がだんだん大きくなった。」
 
マリア・アントニアを通して確認したもの
 
今回は、マリアママの涙だけ。
 
1つめのまとまりの時には、私のことと聖霊との一致を認めない聖職者のため。
 
2つめのまとまりは、言葉だけで、聖霊を信じていると言っている人に対して。
 
3つめのまとまりの時には、間違った解釈をして、それを力説している人に対して。
 
4つめのまとまりの時には、これ以上は、御子の怒りの手を止められないという意味です。

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前代未聞の大奇跡が起きた!!

リトル・マグダレーナの証言
2017年5月20日(土曜日)の説教中、しずくのしたたる音を聞いた。十字架のある祭壇のほうから聞こえて、わずか1メートルのところに録音機があった。はじまって8分、ジャン・マリーが「ハイ。孤児ですね。」と言ったあとから、ポタッとひとしずくが始まり、続いて「マリアママがどれほど泣かなきゃいけないか。」っていうところで、またひとしずく。
北朝鮮の話にうつって「若い女の人がいて」というところで、ひとしずく。それから、だいたい1分して「世界はこれでとどまらないんだよ。」とジャン・マリーが話してから、ひとしずく。コプト教会のテロの話にはいると、一回にふたしずくと増えていく。したたる音が三度ほど続く(ふたしずく)。音も大きくなっていくのが、はっきりとわかる。
イザベラの話にはいって、また、ふたしずくの音。日本の多くの殉教者のところでも、また、ひとしずく。天草四郎と4万人の人々の話をしたときに、ひとしずく。そのとおりです、って言っているかのように、私には感じられた。天草四郎が、いつ殺されるか言っているところ。「飢え死にしたり」というところでも、ひとしずく。「旧暦の2月28日」のところで、ひとしずく。「桜の咲くころは、4月じゅう何日」という、太陽暦のところで、ひとしずくがあった。ここから、ひとしずくの音が、間隔がせまくなる。
幕府がたのさむらいが、どうやって殺していったか、という話しに入って、しずくの音が3滴、続くことが多くなって、海に死体を投げると話したところで、しずくが流れる。「残酷さにおいては、日本は世界有数だよ。」というところで、6滴のしずく。「映像で見たような」のところで、一回ひとしずく。次は「十字架を」のところで、一回、ひとしずく。なまり玉をつぶして作った十字架のこと。口にくわえて、首を切られたところで一回。されこうべのところで二回、大きな音のしずく。また一回、ひとしずく。1分ほどなくて、福祉の制度の話をしたあと、ふたしずくの音。「臓器を抜き取る、黒ミサにうっとばす」と言ったあと、一回、ひとしずくの音。「老人は社会の負担だから、安楽死させる」と言ったところで、ひとしずく。
「神ちゃまの目から、どれほど心が張りさけることをやっているか」のところで、5滴の涙の音。「本当にマリアママの悲しみを思いやる」のところでと「聖人たちは過労死した」と言ったところで、3滴のしたたる音。「共産主義の加わらない人たちは、『しゅくせい』といって、スターリンから殺されまくった」というところで、弱く2滴の音。「今のことだよ!」のところで、ひとしずく。1分ほどなくて、「ミサはない」というところで、ふたしずく。
また、1分ほどなくて「性器までズバッ」ていうところにきたときに、ふたしずくの音。「臓器も取りさられて」のあと、1滴ずつ、3滴の音。「何かできるとみんなに言いたい」のところから流れ始める。「悪をくいとめるには礼拝だ」ここでポタッ、ポタッ、ポタッと3滴。「リトル・マグダレーナが毎金曜日と13日、3時間のつぐのいをやっている」のところで、ひとしずく。「悪魔との残酷な関係」というところで、ひとしずく。「永遠に霊魂が虐殺(ぎゃくさつ)される」のところで、ひとしずく。
「存在しつづけて」のところで、ひとしずく。「ロード・オブ・ザ・リングの旅の仲間」のところで、3回、したたる音。「全力を尽くすべきでしょ?」と「自分たちのために時間を使うのは、一番くだらない」のところで、ひとしずくの音。スール・マリー・エメリーの話に入って、「つぐのったんだ」のあと、「とびこんだ修道院のマザー」のところに、ひとしずく。「ルシファーとの奪いあいが続いて」のあと、「マザーたちが勝った」のあと、弱く1滴。そのあと、「観想修道女たちの、ひたすら礼拝、つぐのいだ」のところで、ひとしずく。2滴ずつのしたたる音が、このあと1回ある。その前に、「本当にそうだよ」と、ジャン・マリーが言ったところで、1回、ひとしずくの音がしている。「もっと、もっと、もっとやってあげたい神ちゃま」のところで、ふたしずく。「仕え、奉仕する」のところになったら、ひとしずく。「長時間、休まなきゃいけない。どんどん」のところで、ふたしずく。「休むっていうのは、礼拝し、つぐのってから休むんだ」と言ったあと、ひとしずく。
「そういう場合ですか?」ひとしずくの音。「みんなの精神的やすむっていったら」のところで、ふたしずく。それから、ひとしずくとふたしずく。ジャン・マリーのことで「活動する時間が、本当に少ししかなくて」と言っているところ、ふたしずくの音。「だって、昔からできる」ひとしずくの音。「でも、子供のころからならったこと」ひとしずく。「ヨゼフパパも泣きじゃくる。どうする?」と、ジャン・マリーが言ったあとから、したたる音が、全部で17回のしたたる音がした。
マリア・アナスタジアの話しに入って、しずくが聞こえている。「十字架を担いなさいって、天が言ってる。あの痴呆のおばあちゃんにも」で、ひとしずく。そのあと、「自分に娯楽のために使う時間っていうのは」のところで、ひとしずくの音。「もちろん、バランスでね」のところで、ひとしずくの音。「戦えっ!たら戦うんだ。命をおしまず」ここから、またしたたる音が聞こえている。5滴のしずくの音。「ぼくも言われたよ。ご聖体の前を通るとき」のところで、ひとしずく。
「起きあがって、聖体訪問し」のあと、「帰ってきて、また両ひざついて聖体訪問し、ゴロン」この間に、3度、ポタッ、ポタッ、ポタッとしたたる音。リトル・マグダレーナと外出した時に感じた話になって、「本当に、心臓にまったく力がない」っていう話をした時に、ふたしずくの音。「数日前、本当にダメだとわかった」ふたしずく。「何しろ、心臓病なんだ」のところで、ふたしずく。「毎年、重くなっていく」のところで、ふたしずく。
「告解を聞いてもらえて」のところ、ふたしずく。「マリアママをうれし泣きさせることしか、頭になくて」のところで、ひとしずく。「そういう司祭がいて、折にふれて語り、模範を見せ、そして・・っていう」のあと、ひとしずく。「でも、本当に今、とうとう始まった・・。」4滴のしずく。最初、ひとしずく。次に、ふたしずく。最後に、ひとしずく。「みんなが用意できてない」のところで、ゆっくり、ふたしずく。「できるだけ、イエズスから離れようとしたのは、ユダ・イスカリオテだ。」ひとしずく。「自分の良心、よいこころの良心」のところで、ふたしずく。
説教は54分間。しずくの音は、8分して始まった。そして、終わる2分前に止まった。だから、44分間。しずくの音が続いた。「不思議だな~。どうしてなんだろう?何かあるのかなあ?と思って、びっくりしながら聞いていた。」
録音機に録音されてるのがわかった時、そのビックリは増した。空耳じゃなかったんだと思った。
御受難のマリア・アントニアをとおして、マリアママが説明してくれた内容を聞いたときは、「しずくの音が真実なんだ!」と思った。これから何が起きるんだろう?というのが、正直な思い。
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前代未聞の聞こえる奇跡が録音された。それはマリアママの涙と御子イエズスの十字架上で流された、わき腹から出た血と水に分離されたものの、したたる音だった。5月20日のミサの説教中、54分の説教の間、44分にわたってしたたる音は続き、録音された。マリアママの涙と多くの人たちのために流されたイエズスの血と水のしたたる音の奇跡の理由を、マリアママは「これから、いよいよ、サタンの大あばれが始まるからです。私の話を聞いても、受け入れなかった霊魂にあわれみの涙を流しています。」と教えてくれた。
獣のフランシスコ教皇は、ルシファーを礼拝し、仕えているサタニストだ。アルゼンチンの軍政時に、軍に両親を殺された孤児たちを、メインは黒ミサのいけにえに、次は性奴隷にと、軍と手を組んで売りとばしていたのが、フランシスコというコードネームを、軍から与えられていた、イエズス会の当時の管区長の彼だった。
彼を大喜びで受け入れ、ついていくカトリック教会は、三位一体の神という夫を裏切り、ルシファーというサタンを夫にした大淫婦(だいいんぷ)となった。神をとりかえるということを、とうとうやってのけたカトリック教会の人々は、マリアママの話を聞いても受け入れなかった。そして、いよいよ全世界で、悪魔の大あばれが始まる。
ローマ兵のロンジーノが、イエズスのわき腹をやりで突いて、み心が大きくさかれ、血と水が流れ出た時から、「ここにおいで。入りなさい。」と、愛のみ心は開かれたままだ。マリアママの話を聞いて受け入れる人が、マリアママの涙、イエズスの血と水によって清められ、大きく開かれたみ心に入って、天国に行く。
今、「おいで。」と呼びかけられているのは、どうしようもないほど罪によごれくさったならず者たち。(特に性的罪におちいっている人、もちろん悪いことをくり返す人も。)そして自殺志願者、ひきこもり、同性愛者、性同一性障害の人、性転換した人、e.t.c.だ。これからいよいよサタンの大あばれが始まる。けれども、リトル・ヨハネであるジャン・マリーが、マリアママの話をし続けるので、リトル・ヨハネを信頼して、マリアママの話を受け入れて、どうかヨゼフパパによって天国に裏口入学してね。
ぼくは、言いたいことが、まだまだいっぱいあるから、これからも発表するよ。
ジャン・マリー神父・ソーンブッシュ・リトルヨハネ

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あるフルエクソシズムで対決した悪魔(堕天使)の告白 2017年3月28日 AM3:50

今の教会には、何もほとんどめぐみが注がれていない。上層部の人間は、すべて俺たちにあやつられている。そして、信徒たちは、プロテスタント化されている。司祭は、ほとんどの司祭が時間をかけてミサをしなくなっている。司祭は、ほとんど信徒の前でミサをしなくなっている。やりたがらなくなっている。そして、ほとんど時間もかけずに、ほそぼそと一人で、したくないけれども、という気持ちで、孤独でしかたなくという気持ちでやっている。信徒にミサの話をすると、嫌な顔をされてしまうので、ほとんど、必要な時以外は、話をすることもなくなっている。何かの行事の予定を話すようにしか、話せなくなっている。こっけいでしかたがない。建物は、かろうじて、そうごんな雰囲気を残している所はあるが、そこでミサをするという気持ちは、ほとんど無い。無くなってしまった。結婚式場の方が、よほどすばらしい。だが、まことの神がいないのは事実だ。うつわだけが残っていて、もぬけの殻である。昔はそこには(教会には)、まことの神が存在していた。だから皆、招かれた。来るようにみちびかれた。俺たちの計画が、しみとおる前は、本当に神の代理者のいる場所だった。罪の告白を、神の代理者として熱心に聞き、神の代理者として自分が許すのではなく、救い主が許しを与えるのだという神父は、昔はあたりまえにたくさんいた。今は、罪の告白(告解)を、神父が自分から逃げてしまっている。神の代理者という重要な立場で、真剣な神父がほとんどだった。それをくずすのに、ずいぶん時間がかかった。今では集会所となった。歌を歌って、お茶を飲みながら話をして解散するという、こっけいな場所にすることに成功した。司祭は、神父は、すみに追いやられている。見たところでは、神父がそこに中心にいて、皆を先導しているように見えるが、ほどんどは、面白いように女の信徒たちは、はりきって活躍するから、俺たちの思うとおりになっている。俺たちにとっては、大変、喜ばしいことだ。どんなことがあっても、かえてはいけなかったのは、十字架からイエズスを無くして、ただの木の十字架にしてはいけなかった。磔刑像(たっけいぞう)でなければいけなかった。救い主の存在を、消し去ってはいけなかった。ただの十字架にしてはいけなかった。救い主がはりつけられている状態のままにしておかなければいけなかった。今も、そのままでなければいけなかった。あろうことか、復活した救い主の像にかえられているところがあるけれども、今はまだ、そういう時期ではない。司祭は、ミサをどんなことがあっても続けなければいけなかった。昔のように・・。何も省略をすることなく、ラテン語で、時間がかかっても、ていねいにやらなければいけなかった。女たちの意見に押されることなく、続けなければいけなかった。少しずつ変えていったのは、俺たちの計画だったけれども、女は本当にすごく使いやすい。そして上層部からも少しずつ変えていった。決まり事を少しずつ、あやしまれないように変えていった。ほとんどカトリックでは無くなっている。ほとんど正しく行われていない。これほど俺たちがつぶしたいと思っているのは、それほど重要だからだ。ミサがあると、正しくミサが行われると、たくさんの霊魂が天国へ行ってしまうからだ。最後のばんさんの時に、救い主が使徒たちに教えた事が、再現ではなくて、司祭が信仰を持って行う時は、毎回、聖変化が本当に起きていた。俺たちにとっては、残念なことに、まだ正しく行っている司祭が存在している。そして今回、俺が言いたいこと、言わなければいけないことは、決して女たちが、司祭にはなってはならないということだ。あれこれ色々な理屈で主張をしているけれども、救い主が使徒をあつめて、ミサの制定をしたとき、それを伝えたとき、そこには、その部屋には、女性はいなかった。救い主は使徒だけに伝えた。男どもだけに伝えた。あれこれ女性の権利を主張するような、あたかもそれが正しいことのようなこととして、声を張り上げて言うような者たちがいるけれども、今までそれがいかに女たちの一番、弱い部分であるかを、一番、女たち自身がわかっていない。また、同じ事でさわぎ始めている。今度は司祭にまで、なろうとしている。なりたがっている。これも俺たちの計画の一部ではあるが、じきに思い出したように、女性の司祭の話が再浮上してくることだろう。こりもせずに、あきることもなく希望し続けている。昔の司祭のように、祈りを中心として、霊魂のためなど、これっぽっちも考えていない。自分のためだけの、形式だけの注目をされたい。もよおしものを開きたいと、行動をするようになる。腹がよじれるくらい、おもしろい。人の事など、何も考えていない。女どもが司祭になどなったら、本当に取り返しのつかない大変なことになる。外見は・・。教会の外観は、たちまち喫茶店のようになる。そして内部は、考えただけでも、笑いがこみ上げてくるが、音楽会の会場と変わらないようなものになる。だから女性には、司祭にさせてはならない。許してはならない。秘密を守ることなど出来ない。神との一対一の対話など、出来るはずもない。するわけもない。他の霊魂のために祈るはずもない。出来やしないのだから。ごく一部の、めぐみを与えられた霊魂の女性しか、人のためになど祈らない。修道女といえば聞こえはいいが、自分の事で精一杯なのだから・・。そのようなやつらは、「あなたはつつましくて素晴らしい」と人から尊敬されることが続いて、いつのまにか、自分は気高いと本気で思うようになる。いばるようになる。俺たちからすると、都合の良いご意見番が出来上がる。とても偉大なことをしていると思っている。司祭に意見をするようになる。指示をすることで、自分の地位をなんとか保っている。自分が言わなければいけないことは、女性が司祭にはなってはいけないということだ。はっきりしているのが、天におられる祝されたおとめですら、沈黙を守っておられたのに、いつも表には出ることも、ほとんどなかったのに、このごろは女性が司祭になってもいいではないかと主張をする。どこまでうぬぼれているのか。犯罪の影に女ありとは、よく言ったものだ。もともと女が男をそそのかして犯罪が生まれた。教会の中の、少しずつ変わっていったことの発端も、ある意味、女たちの努力の結果だ。自分たちが間違いをおかしていることなど、少しも気付いていない。指摘をすると、開き直る。そして、ますます集団で、団結をして抗議を始める。そこを俺たちは利用する。祝された、天におられるおとめからは、このことを話すように言われた。もし、女が司祭になって、告解を聞いたとするならば、たちまち秘密が暴露される。人の犯した罪の告白を知った途端に、話を大きくして、人に話をしてしまう。どんなに口が重い女性でも、告解の秘密を守る事は、完全には、絶対に出来ない。天におられる祝されたおとめ以外は、本当にエヴァの罪が出てくる。失語症にでもならない限りは、必ず秘密が暴露される。
もう一度話すが、絶対に女は司祭になどなっては、ならない。代理など、真似事をすることも、特別な事情が無い限りは、やってはいけない。俺は、もう、すべて話さなければいけないことは、本当に話した。

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